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【流れを徹底解説】自由民権運動とは。簡単にまとめ。(新聞紙条例・集会条例・国会開設の勅諭・秩父事件・三大事件建白運動)

こんにちは。

今回はこんなテーマでやっていきます。

新政府が国会を作らないことへの反抗として始まった自由民権運動なわけなので、国会が作られた瞬間にこの運動は目的を失います。まさに線香花火のような存在です。

目次

自由民権運動とは?目的は?始めた人は?

明治時代の初期~中期にかけて行われていた運動です。

主な目的は

  • 憲法作成・憲法に基づいた立憲政治
  • 国会の開設

です。板垣退助を中心として始まりました。

きっかけは明治6年の政変

明治6年の政変によって板垣退助が政界から下野(地方に戻る)してしまったんです。板垣は政府のやり方に不満を持ち、地元の土佐で政党を作ることにします。それが次に紹介する愛国公党です。




愛国公党

板垣は明治6年の政変で下野した後、故郷で日本初の政党である愛国公党を作ります。

この党は民撰議院設立建白書(国会作ろう!)を左院(今の国会)に提出したことで有名で、この建白書はお雇い外国人ブラックが作っていた日新真事誌という新聞に掲載されました。

結果としてこの建白書は採用はされなかったものの、これ以降自由民権運動が活発になっていきます。これだけでも愛国公党からしたら成功といえるでしょう。

立志社と愛国社(全国的組織)

板垣が片岡健吉と協力し設立しました。愛国社は全国的な組織であり、自由民権運動がいかに広まっていったかが分かります。

しかし、民権運動が盛んになると困るのは政府です。そこで政府はここでは民権派に妥協をするように求めていきました。

大阪会議

民権運動の活発化をまずいと思ったのは政府側。そこで愛国社側と大阪会議で交渉に出ることにしました。

大久保利通(政府側)vs木戸孝允&板垣(民権派)という構図で会議は行われ、大久保は民権派に妥協をし、民権運動の禁止はとりあえずしないこととし、板垣と木戸はいったん政府に復帰することとなります。

この際、木戸の出した案である地方官会議が設置され、

  • 群区町村編成法
  • 府県会規則
  • 地方税規則

3つ合わせて地方三新法を制定していきます。このことは後の地方制度の改革につながっていきます。

このことを見るといかに政府が民権派にビビっていたかが分かりますよね。

政府VS民権派

政府もこのままではいられない、というわけで民権派に対して規制をかけていきます。政府が使ったのは「アメとムチ」。民権派にとって良いことを与えつつ、本質的には規制をしていくという作戦を取っていきます。

ここからは〇=政府、●=民権派としてやったことを紹介していきます。少し長くなりますがご了承ください。

〇政府によって「讒謗律(ざんぼうりつ)・新聞紙条例」(1875)が出される(ムチ):政府に対する悪口や民権派が作る新聞を規制。代わりに「漸次立憲政体樹立の詔」を出し(アメ)、ちょっとずつ国会の制度を整えるという事を民権派に約束する。

●民権派が立志社建白西南戦争の最中に提出しようとしたが

〇政府が止めた(ムチ)。

国会期成同盟(1880)が河野広中を中心に設立、国会開設請願書を出すが、

〇受理せず、代わりに同年「集会条例」を出す(ムチ)。政治集会に規制がかかるように。

●1881年に自由党結成。党首:板垣退助

〇政府、明治14年の政変で伊藤と国会の作り方でもめていた民権派代表の大隈重信(伊藤は漸進派、大隈は即時開設派)を排斥(ムチ)、代わりに「国会開設の勅諭」を出す(1881)(アメ):10年以内に国会及び憲法を作るという内容。

●大隈重信が立憲改進党を作る。この結果として「自由党vs立憲改進党」という構図の発生。

〇政府、立憲帝政党を結成するも支持は得られず

〇政府、板垣を懐柔(なつかせるという事)する。政商「三井」と協力し、当時なかなか行くことのできなかった海外旅行へ板垣を招待。板垣は民権運動を抑えるようになる。

●立憲改進党が自由党を非難

●自民党の激化事件(1882~1885)が問題に。試験に出てくるのは主にこの3つ。

  1. 福島事件河野広中が福島県議会から追放されたのをきっかけに民権派が起こした暴動、県令三島通庸(みちつね)との戦い。三島はこの後警視総監に
  2. 秩父事件困民党を作った民衆が暴動を起こす。
  3. 大阪事件大井憲太郎が武力で朝鮮を倒そうと考え、行く寸前で捕まった事件

これらの事件では自由党の党員が暴動の原因とされ、自由党の発言権が無くなっていった。こうした動きの中、自由党解散立憲改進党事実上の解散となり、民権運動は一時衰退

●そんな中、「三大事件建白運動」が活発に(1887)

を目標に星亨(ほしとおる)を中心に運動となっていく。「大同団結」がスローガン。

○同年「保安条例」を発令(ムチ):民権派は皇居から半径12キロ以内にいることができなくなる。半径12キロというと大体東京23区がすっぽりと治まるほどの範囲。

憲法発布(1889)により、民権運動は安定化。そもそもの目的が達成されたのでこれ以上運動をやる必要が無くなった。

そして市民による運動は自由民権➡共産主義・民主主義運動へと変わっていくこととなります。共産主義・民主主義運動は大正時代に盛んだった運動です。




最後に

今回は長かったですがお疲れ様でした。

明治6年の政変はコチラ。

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そして民権派の夢であった国会・憲法は無事に作られることになりました。

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