こんにちは。
今回はこんなテーマでやっていきます。
新政府の中に使節団と留守政府というものを分けて作ってしまった結果、両者の間に修復できない傷を作ってしまうこととなります。
それではどうぞ。
目次
征韓論の誕生
留守政府の期間に成立し、特に西郷隆盛が推進していた政策です。
征韓論の基本的な考え方は韓国(朝鮮)を制圧して、そこで得た利益を国民に与えるというものでした。つまり朝鮮を征服することが前提の考え方なのでこのころの日本には若干物騒・無謀な計画ということもできます。
きっかけは士族の困窮で、西郷らは武士を見捨てられず、このような政策をとったともいえます。
こうして国内では征韓論が高まりを見せ、あとは岩倉使節団が返ってくるのを待つだけでした。
征韓論派(留守政府)VS反対派(使節団)
1873年に岩倉使節団は帰国します。そして征韓論はというと反対されます。確かに武力で朝鮮を制圧できるほど当時の日本に軍事力があったわけではないし妥当な判断だったということもできると思います。
しかし、征韓論が否定されたことに納得がいかず西郷・板垣たちは下野(げや。政界から抜けること)することとなりました。
この一連の流れを明治6年の政変(1873)といいます。
この後は
下野してしまった西郷と板垣ですが、当然政府に対する不満をあきらめたわけではありません。このあと
という形態で政府に反抗していくこととなります。
最後に
今回は以上です。ご覧いただきありがとうございました。
コメント
コメント一覧 (4件)
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[…] 西郷たちからしたらプライドが傷ついたんでしょうね。この一連の出来事を明治六年の政変といいます。 […]
[…] 西郷はこの決定に納得がいかず、政界を下野(政治から距離をおくこと)します。この事件を「明治6年の政変」といいます。 […]
[…] この後留守政府は帰ってきた大久保たちと明治6年の政変で争うことになります。詳しくはこちら。 […]