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薩英戦争はなぜ起きたのか?薩摩藩とイギリス艦隊の戦いと日本の近代化への影響を解説

薩英戦争はなぜ起きたのか?薩摩藩とイギリス艦隊の戦いと日本の近代化への影響を解説

幕末の日本では、外国勢力との衝突が各地で発生していました。そのなかでも、薩摩藩とイギリスが直接戦った「薩英戦争」は、その後の日本の歴史を大きく変える出来事となりました。

1863年(文久3年)、イギリス艦隊が鹿児島湾に現れ、薩摩藩に対して前年の生麦事件の賠償と関係者の処罰を要求しました。しかし、薩摩藩は要求を受け入れず、両者は砲撃戦に突入します。

なぜ薩摩藩はイギリスの要求を拒否したのでしょうか。そして、戦争を経験した薩摩藩は、なぜ外国を排除する攘夷から、外国と協力する近代化へと方針を変えていったのでしょうか。

目次

1. 薩英戦争とは?1863年に鹿児島で起きたイギリスとの戦争

薩英戦争は、1863年8月15日・16日(文久3年7月2日・3日)に、薩摩藩とイギリス艦隊の間で行われた戦争です。

発端は、前年の1862年に発生した生麦事件でした。島津久光の行列に遭遇したイギリス人たちに薩摩藩士が斬りかかり、チャールズ・リチャードソンが死亡した事件です。

イギリスは薩摩藩に対して賠償金の支払いと事件関係者の処罰を要求しました。しかし、薩摩藩が要求を拒否したため、イギリス艦隊が鹿児島湾へ派遣されました。

交渉が決裂すると、イギリス艦隊は薩摩藩の船を拿捕し、薩摩側も砲台から反撃します。戦闘によって鹿児島城下は大きな被害を受けました。

この戦争は、薩摩藩が外国の軍事力を実感し、その後の外交や軍備の方針を転換する重要なきっかけとなりました。

2. なぜ薩英戦争が起きたのか?生麦事件から続く外交問題

生麦事件でイギリス人が殺害された

1862年9月14日(文久2年8月21日)、現在の横浜市鶴見区生麦付近で、島津久光の行列とイギリス人4人が遭遇しました。

行列の通行をめぐってトラブルが発生し、薩摩藩士がイギリス人に斬りかかりました。このとき、商人チャールズ・リチャードソンが死亡し、ほかにも2人が負傷しました。

イギリスにとって、自国民が日本国内で殺害されたことは重大な外交問題でした。イギリス側は幕府と薩摩藩に対して謝罪や賠償を求め、特に薩摩藩には事件関係者の処罰も要求しました。

幕府は賠償金を支払ったが、薩摩藩は拒否した

イギリスは幕府に対して10万ポンド、薩摩藩に対して2万5000ポンドの賠償金を要求しました。

幕府はイギリスとの軍事衝突を避けるため、1863年5月に10万ポンドの支払いに応じました。

一方、薩摩藩はイギリス側の要求を受け入れませんでした。事件関係者の処罰や賠償金の支払いをめぐって交渉はまとまらず、イギリスは薩摩藩に直接圧力をかける方針を取ります。

こうして、外交交渉で解決できなかった問題が、軍事衝突へと発展していきました。

3. イギリス艦隊はなぜ鹿児島にやって来たのか?

1863年8月11日(文久3年6月27日)、イギリス艦隊7隻が鹿児島湾に姿を現しました。

艦隊には代理公使ニールらが乗り込み、薩摩藩に対して生麦事件の賠償金2万5000ポンドの支払いと、事件関係者の処罰を要求しました。

イギリス側の目的は、外交交渉で解決できなかった要求を、軍事力を背景に実現することでした。艦隊を鹿児島まで派遣したこと自体が、薩摩藩に対する強い圧力だったのです。

しかし、薩摩藩は要求を簡単には受け入れませんでした。鹿児島湾では使節を通じた交渉が行われましたが、合意には至りません。

薩摩藩はすでに外国艦隊との戦闘を想定して沿岸の防備を整えており、砲台の準備や射撃訓練を進めていました。両者の緊張は、ついに戦闘へと向かいます。

4. 薩英戦争はどのように戦われたのか?

イギリス艦隊が薩摩藩の船を拿捕

1863年8月15日、交渉がまとまらないなか、イギリス艦隊は薩摩藩の蒸気船3隻を拿捕しました。

これは薩摩藩にとって重大な挑発行為でした。薩摩側は沿岸の砲台からイギリス艦隊に砲撃を開始し、戦闘が本格化します。

イギリス艦隊は近代的な軍艦と強力な艦砲を備えていました。一方、薩摩藩は海岸沿いに設置した砲台を中心に応戦しました。

鹿児島湾で激しい砲撃戦が発生

イギリス艦隊は、薩摩藩の砲台や軍事施設を攻撃しました。薩摩側も各地の砲台から反撃し、鹿児島湾では激しい砲撃戦が繰り広げられます。

イギリス艦隊は、アームストロング砲などの近代兵器を使用しました。薩摩藩の砲台や工場施設などは大きな被害を受け、鹿児島城下でも火災が発生しました。

一方、イギリス艦隊も無傷ではありませんでした。薩摩側の砲撃によって艦船に損害が出たほか、旗艦ユーリアラス号の艦長ジョスリングらが戦死し、多数の死傷者が発生しました。

鹿児島城下にも大きな被害が出た

戦闘によって、鹿児島城下の建物や軍事施設が焼失しました。特に、薩摩藩が近代的な産業や軍備を整えていた集成館も被害を受けました。

集成館は、島津斉彬の時代から進められてきた薩摩藩の近代化事業の中心施設でした。そこでの被害は、薩摩藩にとって軍事面だけでなく、産業面でも大きな損失となりました。

戦闘は翌16日まで続きましたが、イギリス艦隊は鹿児島湾を離れました。薩摩藩も甚大な被害を受けており、明確な勝敗が決まった戦争ではありませんでした。

5. 薩英戦争の結果はどうなったのか?

薩摩藩はイギリスとの和議に応じた

戦闘後、薩摩藩とイギリスは再び交渉を進めました。

最終的に1863年10月、横浜で和議が成立します。薩摩藩は生麦事件の賠償金2万5000ポンドを支払うことや、事件関係者の処罰に向けて対応することを約束しました。

賠償金については、薩摩藩が幕府から資金を借り受けて支払う形が取られました。つまり、薩摩藩は当初拒否していた要求を、戦争を経て受け入れることになったのです。

イギリスも薩摩藩の軍事力を認識した

薩英戦争では、イギリス艦隊が近代的な兵器によって鹿児島城下に大きな被害を与えました。一方で、薩摩藩の砲台からの反撃によってイギリス側にも損害が出ました。

イギリスは、薩摩藩が単純に武力で屈服させられる相手ではないことを認識しました。

そのため、戦後は両者の関係改善が進みます。薩摩藩はイギリスから軍艦や武器を購入するなど、近代化に向けた協力関係を築いていきました。

6. 薩英戦争によって薩摩藩はなぜ攘夷から開国へ転換したのか?

外国の軍事力を実際に体験した

薩摩藩は、それまで外国勢力に対抗する姿勢を示していました。しかし、薩英戦争によって、イギリスの近代的な軍艦や砲撃能力を目の当たりにします。

外国勢力を武力で排除することが、現実的には非常に難しいことを理解したのです。

もちろん、薩摩藩が一度の戦争ですべての攘夷思想を捨てたわけではありません。しかし、外国と正面から戦うだけでは国や藩を守れないという認識が強まりました。

外国との交流によって軍事力を高めようとした

薩摩藩は、外国との対立を続けるよりも、外国の技術や知識を取り入れる方向へ進みました。

イギリスとの関係を改善し、軍艦や武器の購入、技術者の交流などを進めていきます。

1865年には薩摩藩英国留学生がイギリスへ派遣されました。留学生には、後に大阪の近代産業の発展に関わる五代友厚や、外交官・政治家として活躍する森有礼らが含まれていました。

薩英戦争は、薩摩藩が海外の技術や制度を積極的に取り入れる契機の一つになったのです。

7. 薩英戦争は倒幕運動にどのような影響を与えたのか?

薩英戦争は、薩摩藩の外交方針だけでなく、幕末の政治勢力の関係にも影響を与えました。

薩摩藩は当初、島津久光を中心に公武合体を重視していました。しかし、幕府の政治改革が思うように進まず、長州藩との対立や京都での政治的な衝突も続いていました。

一方、薩英戦争後にはイギリスとの関係が改善し、薩摩藩は外国の技術を取り入れながら軍備を強化していきます。

その後、薩摩藩は長州藩との関係を見直し、1866年には薩長同盟が成立しました。かつて対立していた両藩が協力し、幕府に対抗する政治勢力を形成していきます。

薩英戦争が直接倒幕を引き起こしたわけではありません。しかし、薩摩藩が外国との協力を重視するようになったことや、軍事力の近代化を進めたことは、その後の政治的な行動を支える重要な要素となりました。

8. 薩英戦争は日本の近代化にとってどんな意味があったのか?

薩英戦争の歴史的な意味は、外国の軍事力を実際に経験した薩摩藩が、外交や軍備のあり方を大きく変えたことにあります。

それまでの薩摩藩は、外国勢力に対抗するために軍備を整えていました。しかし、戦争を通じて、単に武器を備えるだけでは近代的な海軍力に対抗できないことを認識しました。

そのため、外国との貿易や技術交流を通じて、軍艦や兵器、産業技術を取り入れることが重要になりました。

こうした動きは、明治維新後の日本が近代国家を形成していく過程にもつながっていきます。

また、薩摩藩だけでなく、長州藩も1863年の外国船砲撃や翌年の四国艦隊下関砲撃事件を経験し、攘夷の難しさを認識しました。幕末の有力藩が相次いで外国との関係を見直したことは、日本全体の政治や外交の転換を促すことになったのです。

まとめ:薩英戦争は薩摩藩が近代化へ進む転機となった

薩英戦争は、1863年に生麦事件の賠償問題をきっかけとして起きた、薩摩藩とイギリス艦隊の戦争です。

薩摩藩がイギリスの要求を拒否したため、7隻の艦隊が鹿児島湾に派遣されました。交渉が決裂すると砲撃戦が始まり、鹿児島城下や集成館などに大きな被害が出ました。

戦後、薩摩藩は賠償金の支払いなどを約束してイギリスと和議を結びます。そして、外国の軍事力を認識したことで、イギリスとの関係改善や軍備の近代化を進めるようになりました。

薩英戦争は、薩摩藩が攘夷から現実的な開国・近代化へと進む重要な転機でした。その経験は、後の薩長同盟や倒幕運動にもつながっていきます。

幕末の日本がどのようにして外国との対立から近代化へ向かったのかを理解するうえで、薩英戦争は欠かせない歴史的事件なのです。

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