全斗煥はなぜ軍事クーデターを起こしたのか?粛軍クーデターと光州事件、民主化への道を解説
1979年12月12日、韓国で軍部によるクーデターが発生しました。中心となったのは、朴正熙政権下で軍の情報機関に関わっていた全斗煥(チョン・ドゥファン)です。
同年10月、朴正熙大統領が側近によって暗殺されると、韓国では民主化への期待が高まりました。しかし、全斗煥ら軍部の新たな勢力は軍の主導権を掌握し、やがて国家権力そのものを奪っていきます。
1980年5月には、民主化を求める市民や学生の運動が光州で発生しました。これに対して軍は武力で鎮圧し、多数の死傷者を出しました。光州事件は、韓国の民主化運動を象徴する出来事となります。
なぜ全斗煥は軍事クーデターを起こしたのでしょうか。そして、軍事政権はなぜ光州事件を引き起こし、最終的に民主化を受け入れることになったのでしょうか。
1. 全斗煥はどのような人物だったのか?
全斗煥は1931年、朝鮮半島南部の慶尚南道で生まれました。貧しい農村家庭に育ち、1947年に大邱工業学校を卒業すると、軍人を目指すようになります。
1951年に韓国陸軍士官学校へ入学し、1955年に卒業しました。軍人として経験を積み、1961年の5・16軍事クーデター後には、軍内部で政治的な人脈を広げていきます。
全斗煥は陸軍士官学校の卒業生を中心とする軍内部の人脈「ハナフェ(壱会)」に所属していました。ハナフェは、後に韓国軍の重要ポストを占める新軍部の中心的な組織となります。
朴正熙政権下では軍の情報機関である保安司令部の司令官に就任しました。保安司令部は軍内部の情報収集や監視を担当する組織であり、全斗煥は軍内部の人事や政治情勢にも強い影響力を持つようになりました。
こうした軍内部の人脈と情報機関での経験が、後にクーデターを成功させる基盤となります。
2. 全斗煥はなぜクーデターを起こしたのか?
全斗煥が権力掌握に動いた背景には、朴正熙暗殺後の政治的空白と、軍内部の権力争いがありました。
朴正熙暗殺によって生まれた政治的空白
1979年10月26日、朴正熙大統領が中央情報部長の金載圭によって暗殺されました。約18年間続いた朴正熙政権が突然終わり、韓国は大きな政治的転換期を迎えます。
大統領代行を経て崔圭夏(チェ・ギュハ)が大統領に就任しましたが、維新体制のもとで強い権限を持っていた大統領が不在となり、政治の先行きは不透明になりました。
学生や市民、野党勢力は民主化を求め、憲法改正や政治的自由の回復を訴えます。この時期は「ソウルの春」と呼ばれ、民主化への期待が高まった時期でした。
軍内部の主導権争い
一方、軍内部では全斗煥ら新軍部と、既存の軍上層部との対立が深まっていました。
当時、陸軍参謀総長兼戒厳司令官を務めていた鄭昇和(チョン・スンファ)は、軍内部の規律を重視し、新軍部の動きを警戒していました。
全斗煥らは、自分たちの政治的・軍事的な影響力が失われることを恐れ、軍の主導権を握ろうとします。
つまり、クーデターの背景には国家再建という主張だけでなく、軍内部の権力争いと新軍部による政治支配への意欲がありました。
3. 1979年12月12日、粛軍クーデターが発生
1979年12月12日、全斗煥と盧泰愚(ノ・テウ)らが中心となり、軍内部で武力を伴うクーデターを起こしました。
この事件は「12・12軍事反乱」と呼ばれています。
全斗煥らは、当時の大統領である崔圭夏の正式な承認を得ないまま部隊を動かし、鄭昇和陸軍参謀総長を強制的に連行しました。鄭昇和が金載圭による朴正熙暗殺事件に関与していたという疑いを理由にしましたが、軍の指揮系統を無視した行動でした。
クーデター勢力は首都圏の軍部隊を動員し、軍の主要施設を押さえます。既存の軍上層部との間で武力衝突も発生しました。
最終的に新軍部は軍内部の主導権を掌握し、全斗煥は軍の実力者として台頭します。
ただし、この時点では全斗煥が正式に大統領になったわけではありません。クーデターによって軍の権力を握った後、国家の政治権力を掌握するための動きを進めていきました。
4. 全斗煥はなぜ1980年に政権を掌握したのか?
12・12軍事反乱の後も、韓国では民主化を求める動きが続いていました。
1980年春には大学生や労働者、市民が街頭で集会やデモを行い、戒厳令の解除や民主化を求めます。政治家の間でも、憲法改正や大統領選挙をめぐる議論が進んでいました。
しかし、新軍部は民主化運動の拡大を、自分たちの権力を脅かす動きと捉えていました。
5月17日の非常戒厳令全国拡大
1980年5月17日、新軍部の主導によって非常戒厳令が全国に拡大されました。
同時に、政治活動の禁止や大学の休校、集会・デモの禁止などが実施され、野党指導者の金大中(キム・デジュン)をはじめとする政治家や民主化運動の関係者が拘束されました。
国会も事実上その活動を制限され、民主化を進めるための政治的な動きは封じ込められていきます。
この措置によって、新軍部は国家の政治・軍事両面で支配力を強めました。
全斗煥が大統領になるまで
1980年8月、崔圭夏大統領が辞任すると、全斗煥は統一主体国民会議による間接選挙で大統領に選出されました。
同年10月には新しい憲法が制定され、大統領の任期を7年とする第五共和国体制が整えられます。
1981年2月、全斗煥は新憲法に基づく大統領選挙で当選し、正式に第五共和国の大統領となりました。
こうして軍事クーデターから始まった新軍部の権力掌握は、全斗煥を中心とする軍事政権の成立へとつながったのです。
5. 光州事件はなぜ起きたのか?
全斗煥ら新軍部による権力掌握に対して、韓国各地で反発が強まりました。そのなかでも、最も大きな衝突に発展したのが1980年5月の光州事件です。
光州は韓国南西部の全羅南道に位置する都市です。民主化を求める学生や市民の活動が活発で、5月17日の非常戒厳令全国拡大に強く反発しました。
翌18日、全南大学などで学生たちが抗議行動を始めます。これに対して、政府は空挺部隊を含む戒厳軍を投入しました。
軍による強硬な鎮圧
戒厳軍はデモに参加した学生だけでなく、現場にいた市民に対しても暴力的な鎮圧を行いました。
兵士による無差別的な暴行や逮捕が発生し、負傷者や死者が出ると、市民の怒りは急速に広がります。
当初は学生を中心とする抗議運動でしたが、軍の強硬な対応によって一般市民も参加する大規模な抵抗運動へと発展しました。
5月20日ごろには、タクシー運転手やバス運転手なども抗議行動に加わり、光州市内で大規模なデモが行われるようになります。
市民軍の結成
5月21日には、戒厳軍が市民に向けて発砲し、多数の死傷者が出ました。
これを受けて市民の一部は武器を手に取り、市民軍を結成します。戒厳軍はいったん市内中心部から撤退し、光州では市民が主要施設を管理する状態となりました。
市民側は、戒厳令の解除や民主化、金大中の釈放などを求めました。市民の間では食料や医療物資を分け合う動きもありました。
しかし、軍事政権は光州の抵抗を認めず、軍による再鎮圧を準備していました。
6. 1980年5月27日、光州事件は軍によって鎮圧された
1980年5月27日未明、戒厳軍は戦車や装甲車などを投入して光州市内へ再進入しました。
市民軍が立てこもっていた旧全羅南道庁などで激しい戦闘が発生し、数時間にわたる作戦によって抵抗は鎮圧されました。
こうして光州事件は終結します。しかし、軍による弾圧で多くの市民が命を落とし、負傷者や行方不明者も多数発生しました。
犠牲者数については、集計方法や対象範囲によって数字が異なります。事件後の調査や公式認定でも見直しが続いており、単純に一つの数字だけで被害の全体を示すことはできません。
当時の軍事政権は報道を厳しく統制し、光州で何が起きているのかを国内に十分伝えないようにしました。しかし、外国人記者らの取材によって、軍の弾圧の実態は国際社会にも知られるようになります。
光州事件は、韓国の民主化運動にとって大きな転換点となりました。軍事政権への不信感が強まり、学生や市民、知識人などの間で民主化を求める運動がさらに広がっていったのです。
7. 全斗煥政権はなぜ民主化運動を抑え込んだのか?
全斗煥政権は、反共主義と国家の安定を掲げながら、政治的な反対勢力を厳しく取り締まりました。
政府は報道機関の統廃合や検閲を進め、学生運動や労働運動、野党勢力に対する監視を強化しました。
また、国家安全保障を理由に、政府に批判的な活動を北朝鮮と結びつけて非難することもありました。
一方で、政権は経済成長を維持することにも力を入れました。輸出産業の拡大や大企業の育成が進み、韓国経済は成長を続けます。
しかし、経済が発展しても、国民が政治的な自由を求める声はなくなりませんでした。学生や労働者、宗教関係者、知識人などが民主化運動を続け、軍事政権への批判は根強く残りました。
8. 1987年の六月民主抗争はなぜ起きたのか?
全斗煥政権に対する反発が全国的な運動へと発展したのが、1987年の六月民主抗争です。
この運動の背景には、長年にわたる軍事政権への不満と、大統領を国民が直接選ぶ制度を求める声がありました。
朴鍾哲拷問致死事件
1987年1月、ソウル大学の学生だった朴鍾哲(パク・ジョンチョル)が警察の取り調べ中に死亡しました。
警察は当初、死亡原因を隠そうとしましたが、拷問による死亡だったことが明らかになります。
この事件は、警察による人権侵害や政府の隠蔽体質に対する国民の怒りを引き起こしました。
4・13護憲措置
1987年4月13日、全斗煥政権は現行憲法を維持する「4・13護憲措置」を発表しました。
当時の憲法では、大統領は国民による直接選挙ではなく、選挙人団による間接選挙で選ばれる仕組みでした。
野党や民主化運動勢力は、大統領を国民が直接選ぶ制度への改憲を求めていました。しかし、全斗煥政権は憲法改正の議論を事実上封じ込めようとしたのです。
この措置に対する反発が、全国的な民主化運動の拡大につながりました。
李韓烈が倒れ、抗議運動が拡大
1987年6月9日、延世大学の学生だった李韓烈(イ・ハンニョル)がデモ中に警察の催涙弾を受け、重傷を負いました。
彼の負傷は学生や市民に大きな衝撃を与え、民主化を求める運動はさらに広がります。
6月10日には全国各地で大規模な抗議集会が行われ、その後も市民が連日街頭に繰り出しました。学生だけでなく、会社員や一般市民も参加し、民主化を求める声は全国的な運動となりました。
この一連の運動が「六月民主抗争」です。
9. 1987年6月29日、全斗煥政権は民主化を受け入れた
六月民主抗争が全国に広がると、全斗煥政権は従来の強硬姿勢を維持することが難しくなりました。
1987年6月29日、与党・民主正義党の大統領候補だった盧泰愚が「6・29民主化宣言」を発表します。
この宣言では、国民が大統領を直接選ぶための憲法改正を受け入れることや、金大中の赦免・復権、政治的自由の拡大などが示されました。
こうして韓国は、大統領直接選挙を実現する方向へと進みます。
1987年10月には新憲法が公布され、12月には大統領直接選挙が実施されました。ただし、選挙では民主化運動を主導した金泳三と金大中が候補者を一本化できず、与党候補の盧泰愚が当選しました。
軍事政権の流れをくむ人物が大統領になったものの、国民が直接投票で大統領を選ぶ制度が復活したことは、韓国の民主化にとって大きな一歩でした。
10. 全斗煥はその後どうなったのか?
全斗煥は1988年に大統領を退任しました。しかし、退任後も政権時代の不正や光州事件をめぐる責任問題は残り続けました。
1995年には、全斗煥と盧泰愚が12・12軍事反乱や5・18光州民主化運動に関する事件などで逮捕・起訴されました。
1996年、全斗煥は内乱首魁などの罪で死刑判決を受けましたが、控訴審では無期懲役となりました。盧泰愚も有罪判決を受けています。
その後、両者は1997年に特赦を受けて釈放されました。ただし、特赦によって歴史的・政治的な責任がなくなったわけではありません。
全斗煥は2021年11月23日、90歳で亡くなりました。光州事件の被害者や遺族への十分な謝罪や真相究明が進まないまま亡くなったことも、韓国社会で批判の対象となりました。
まとめ:全斗煥は軍事クーデターで政権を握り、民主化運動によって直接選挙を受け入れた
全斗煥は、朴正熙暗殺後の政治的空白と軍内部の権力争いを背景に、1979年12月12日の軍事反乱を主導しました。
その後、1980年5月17日の非常戒厳令全国拡大によって政治活動や民主化運動を封じ込め、光州事件では軍による武力鎮圧を行いました。こうして全斗煥を中心とする軍事政権が成立します。
しかし、光州事件や政治的弾圧は、韓国社会に深い傷を残しました。民主化を求める運動はその後も続き、1987年の六月民主抗争によって、ついに大統領直接選挙が実現します。
全斗煥の時代は、軍事政権による強権的な統治と、それに抵抗した市民の民主化運動が激しくぶつかった時代でした。光州事件と六月民主抗争は、現在の韓国民主主義を理解するうえで欠かせない歴史です。
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