日米修好通商条約はなぜ不平等条約だったのか?ハリスの交渉と幕府が認めた条件を解説
1858年、江戸幕府はアメリカとの間で日米修好通商条約を締結しました。この条約によって日本は本格的な貿易を開始し、長く続けてきた対外政策を大きく転換することになります。
しかし、この条約には日本にとって不利な条件が含まれていました。外国人が日本の法律で裁かれない領事裁判権や、日本が自由に関税を決められない仕組みなどです。
さらに、条約の締結にあたっては孝明天皇の許可を得られないまま、幕府が調印を進めました。この決定は国内の反発を招き、幕府と朝廷の対立を深めることになります。
なぜ幕府は不利な条件を受け入れたのでしょうか。そして、なぜ天皇の許可を得ないまま条約を結んだのでしょうか。日米修好通商条約の交渉過程と内容、不平等条約と呼ばれる理由を解説します。
1.日米修好通商条約が結ばれた背景
日米和親条約によって日本は開国への第一歩を踏み出した
1854年、江戸幕府はアメリカのペリーと日米和親条約を締結しました。
この条約によって下田と箱館が開かれ、アメリカ船への薪や水、食料などの供給、遭難者の保護が認められました。
ただし、日米和親条約は本格的な貿易を認めるものではありませんでした。幕府は外国船の寄港や補給には応じたものの、自由な商業活動を認めることには慎重だったのです。
しかし、アメリカをはじめとする欧米諸国は、日本との貿易を本格的に始めることを求めていました。こうして、次の段階として通商条約の締結が問題になっていきます。
アメリカ総領事ハリスが通商条約を求めた
交渉の中心人物となったのが、アメリカの外交官タウンゼント・ハリスです。
ハリスは1856年に初代アメリカ総領事として下田に着任しました。日米和親条約に基づいて日本に駐在し、アメリカとの通商関係を築くための交渉を進めます。
ハリスは、日本が欧米諸国との貿易を認めることには利益があると主張しました。一方で、欧米諸国との関係を拒み続ければ、軍事力を背景とした厳しい要求を受ける可能性があることも幕府に伝えました。
当時、清はアヘン戦争でイギリスに敗れた後、欧米諸国との条約締結を進めていました。さらに1856年にはアロー戦争が始まり、清をめぐる国際情勢は一層緊迫していました。
幕府にとって、欧米諸国との衝突を避けながら外交関係を維持することは重要な課題になっていたのです。
2.なぜ幕府は通商条約の締結を決断したのか?
幕府は外国との貿易に慎重だった
幕府は、外国との貿易を本格的に始めることに強い警戒感を持っていました。
外国との貿易が拡大すれば、国内の商品が海外へ大量に流出したり、国内の物価が上昇したりする可能性があります。また、外国人の活動範囲が広がれば、国内の治安や政治秩序にも影響が出ると考えられていました。
一方で、欧米諸国の軍事力は強大であり、交渉を拒否し続けることにも危険がありました。
幕府は、開国を避けたいという国内事情と、外国との関係を悪化させたくないという外交上の事情の間で難しい判断を迫られていました。
老中・堀田正睦が朝廷の許可を求めた
当時、外交交渉を進めていた老中首座が堀田正睦です。
堀田は、アメリカとの通商条約を結ぶ必要性を認識していました。しかし、開国に反対する意見も強く、幕府だけで決定すれば政治的な混乱を招く可能性がありました。
そこで堀田は、朝廷から条約締結の許可を得ようと考えます。
それまで外交や政治の実務は幕府が主導していましたが、外国との関係を大きく変える決断について、朝廷の権威を借りようとしたのです。
しかし、孝明天皇は外国との通商に強い不安を持っており、条約締結を認めませんでした。
こうして、幕府は外交交渉だけでなく、朝廷との関係という新たな問題にも直面することになります。
3.井伊直弼はなぜ天皇の許可を得ずに条約を結んだのか?
大老に就任した井伊直弼
堀田正睦が朝廷から条約締結の許可を得られず、政治的に行き詰まる中、幕府の実権を握ったのが井伊直弼です。
井伊直弼は彦根藩主で、1858年に大老へ就任しました。大老は、将軍を補佐する幕府の最高職の一つです。
直弼は、外国との衝突を避けるためには条約締結が必要だと判断しました。欧米諸国の軍事力を考えれば、交渉を拒否して戦争になった場合、日本が不利になる可能性が高かったからです。
また、国内の政治的な混乱を長引かせることも避けなければなりませんでした。
1858年、勅許を得ないまま調印を決断
1858年、井伊直弼は孝明天皇の許可を得られないまま、日米修好通商条約の調印を進めました。
条約は安政5年6月19日、現在の暦で1858年7月29日に調印されました。日本側の全権は井上清直と岩瀬忠震、アメリカ側は総領事ハリスです。
調印は、神奈川沖に停泊していたアメリカ軍艦ポーハタン号の上で行われました。
幕府は、条約を結ばなければ外国との軍事衝突に発展するおそれがあると判断し、外交上の現実を優先したのです。
しかし、天皇の許可を得ずに条約を結んだことは、朝廷や開国に反対する勢力の強い反発を招きました。
4.日米修好通商条約の主な内容
日米修好通商条約は全14条からなり、貿易や外交関係、外国人の活動、裁判、関税などについて定めていました。
特に重要なのは、次のような内容です。
① 神奈川・長崎・新潟・兵庫の開港
条約では、下田と箱館に加えて、神奈川、長崎、新潟、兵庫の4港を開くことが定められました。
これによって、外国商人が日本で本格的な貿易を行うための拠点が整えられていきます。
神奈川については、条約上の開港地と実際の貿易拠点の関係が重要です。幕府は外国人の活動を管理しやすくするため、神奈川宿の対岸に位置する横浜を実質的な貿易港として整備しました。
その結果、1859年に横浜が開港し、日本を代表する貿易港へと発展していきます。
② 江戸・大坂の開市
条約では、江戸と大坂を外国人が商取引などを行える場所として開くことも定められました。
港を開くだけでなく、日本の政治・経済の中心都市に外国人が活動する場所を設けることになったのです。
これによって、外国との貿易や外交が日本国内の主要都市にも広がっていくことになりました。
③ 自由貿易の開始
日米修好通商条約によって、日本とアメリカの間で本格的な貿易が始まることになりました。
日本からは生糸や茶などが輸出され、外国からは毛織物や綿織物などの商品が輸入されました。
貿易の拡大は、日本の産業や経済に新しい機会をもたらす一方、国内の物価や流通にも大きな影響を与えました。
④ 外国人の居留と活動範囲
条約では、開港地に外国人が居住し、貿易活動を行うための仕組みが定められました。
外国人は居留地などを拠点として活動し、一定の範囲内で移動することが認められました。
こうした仕組みは、後に横浜や長崎、神戸などの外国人居留地の形成につながっていきます。
5.なぜ日米修好通商条約は不平等条約だったのか?
日米修好通商条約が不平等条約と呼ばれる最大の理由は、日本の司法権や関税に関する権限が制限されていたことです。
① 領事裁判権を認めた
最も重要な問題の一つが、領事裁判権です。
領事裁判権とは、外国人が日本国内で事件を起こした場合、日本の裁判所ではなく、その外国人の所属する国の領事などが裁判を行う仕組みです。
たとえば、アメリカ人が日本国内で犯罪を起こした場合、日本の法律と裁判所によって裁くことができず、アメリカ側の領事裁判に委ねられることになりました。
つまり、日本の領土内で起きた事件であっても、日本の司法権が外国人に十分に及ばなかったのです。
これは、国家が自国の領域内で裁判を行うという主権の重要な部分を制限するものでした。
なお、条約上は相互に領事裁判に関する規定がありましたが、実際には日本人がアメリカ国内で同じような特権を得る仕組みではなく、日本側に不利な制度でした。
② 関税自主権を失った
もう一つの大きな問題が、関税自主権の制限です。
関税とは、外国から輸入する商品などに課す税金です。通常、国家は自国の産業や経済を守るため、輸入品にかける関税を自ら決めることができます。
しかし、日米修好通商条約では、関税率を日本とアメリカの間で取り決める方式が採用されました。
そのため、日本は自国の判断だけで関税を自由に変更できなくなりました。
国内産業を保護するために輸入品への関税を引き上げたい場合でも、外国との交渉が必要になります。
これは、日本が経済政策を自主的に進めるうえで大きな制約となりました。
③ 片務的な最恵国待遇を認めた
日米和親条約にも盛り込まれていた最恵国待遇は、日米修好通商条約にも引き継がれました。
最恵国待遇とは、ある国に対してほかの国より有利な条件を認めた場合、その条件を自国にも適用するという仕組みです。
この条約では、日本がアメリカ以外の国に有利な条件を認めた場合、アメリカにもその利益が及ぶことになっていました。
日本側がアメリカに同じ条件を要求できる対等な仕組みではなかったため、これも不平等な条件の一つとされています。
6.日米修好通商条約によって日本経済はどう変わったのか?
横浜を中心に貿易が拡大した
1859年に横浜などが開港すると、日本と欧米諸国との貿易が本格的に始まりました。
日本からは生糸や茶などが輸出され、海外市場との結びつきが強まります。特に生糸は重要な輸出品となり、国内の養蚕業や製糸業にも大きな影響を与えました。
横浜には外国商人が集まり、商館や倉庫が建ち並ぶようになります。横浜は短期間で国際貿易の拠点へと成長しました。
輸出の拡大で国内の物価が上昇した
一方、貿易の開始は国内経済に混乱ももたらしました。
生糸などの輸出が増えると、国内で流通する商品の量が減り、国内価格が上昇する要因になりました。また、輸入品との競争によって、国内の産業や商業にも変化が生じます。
さらに、当時の日本と海外では金銀の交換比率に差があり、金が海外へ流出する問題も発生しました。
こうした問題が重なり、開港後の日本では物価の上昇や経済の混乱が目立つようになります。
開国と貿易の拡大は新たな利益をもたらしましたが、その恩恵がすぐに国内全体へ行き渡ったわけではありませんでした。
7.日米修好通商条約はなぜ幕府を追い詰めたのか?
朝廷の許可を得ずに調印したことへの反発
条約の内容以上に政治的な問題となったのが、孝明天皇の勅許を得ないまま調印したことでした。
当時、朝廷は外国との通商に慎重であり、孝明天皇も開国に強い不安を持っていました。
それにもかかわらず、井伊直弼は幕府の判断で条約を締結しました。
この決定により、幕府は朝廷の権威を軽視したと批判されることになります。幕府の外交政策をめぐる対立は、単なる開国か攘夷かという問題を超え、政治の正統性をめぐる争いへと発展していきました。
安政の五か国条約へと広がった
日米修好通商条約の締結後、幕府は同じような内容の条約をほかの欧米諸国とも結びました。
1858年には、オランダ、ロシア、イギリス、フランスとも修好通商条約を締結します。アメリカとの条約と合わせて、これらは安政の五か国条約と呼ばれています。
いずれの条約にも領事裁判権や関税に関する不平等な条件が含まれていました。
こうして日本は、複数の欧米諸国と本格的な通商関係を築く一方、外交や司法、経済の面で大きな制約を抱えることになったのです。
幕府への批判が強まり、政治対立が激化した
条約の無勅許調印は、幕府に対する批判を強めました。
外国との通商に反対する人々は、幕府が朝廷の意向を無視したことを問題視しました。やがて、天皇を尊び外国勢力を追い払おうとする尊王攘夷運動が広がっていきます。
幕府は政治的な反対勢力を抑え込もうとしますが、対立はさらに激しくなっていきました。
この政治的混乱は、井伊直弼による安政の大獄や、1860年の桜田門外の変へとつながっていきます。
8.不平等条約はいつ改正されたのか?
日米修好通商条約によって生じた不平等な条件は、明治時代になっても日本の外交上の大きな課題として残りました。
明治政府は、外国人に対する領事裁判権を撤廃し、関税自主権を回復するために条約改正交渉を続けます。
領事裁判権の撤廃については、1894年に陸奥宗光がイギリスとの間で日英通商航海条約を結んだことで実現への道が開かれました。この条約は1899年に発効し、領事裁判権が撤廃されました。
関税自主権については、1911年に小村寿太郎の交渉によって回復が実現します。
つまり、1858年に結ばれた不平等条約の主要な問題を解消するまでには、半世紀以上の時間が必要だったのです。
まとめ:日米修好通商条約は開国を進めた一方、幕府の権威を揺るがした
日米修好通商条約は、1858年に江戸幕府とアメリカの間で締結された通商条約です。
ハリスとの交渉を経て、幕府は神奈川・長崎・新潟・兵庫の開港や江戸・大坂の開市、自由貿易などを認めました。
しかし、外国人に対する領事裁判権や、日本が自由に関税を決められない仕組み、片務的な最恵国待遇など、日本に不利な条件も含まれていました。
さらに、井伊直弼が孝明天皇の勅許を得ずに調印したことで、幕府と朝廷の対立が深まり、尊王攘夷運動が拡大するきっかけとなりました。
日米修好通商条約は、日本が国際貿易へ本格的に参加する転換点であると同時に、江戸幕府の政治的な弱体化を進めた重要な出来事だったのです。
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