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日米和親条約とは何だったのか?締結の経緯と日本が受け入れた条件を解説

日米和親条約とは何だったのか?締結の経緯と日本が受け入れた条件を解説

1854年3月31日、江戸幕府はアメリカとの間で日米和親条約を締結しました。前年にペリーが黒船を率いて浦賀沖に現れたことを受け、幕府がアメリカとの外交関係を築くことを決断したのです。

この条約によって、下田と箱館(現在の函館)の2港が開かれ、アメリカ船への燃料や食料の供給、遭難者の保護などが定められました。日本が長く維持してきた対外政策は、大きな転換点を迎えます。

ただし、日米和親条約は日本とアメリカの自由貿易を認めた条約ではありません。幕府は貿易の開始を避けながら、外国船への対応を現実的なものに変えようとしていました。

なぜ幕府は条約を受け入れたのでしょうか。そして、日米和親条約にはどのような条件が盛り込まれていたのでしょうか。締結までの交渉と条約の内容、日本に与えた影響を解説します。

目次

1.日米和親条約が締結された背景

ペリーの黒船来航で幕府は対応を迫られた

日米和親条約の直接のきっかけは、1853年のペリー来航です。

1853年7月8日、アメリカ海軍の提督マシュー・ペリーは4隻の軍艦を率いて浦賀沖に現れました。ペリーはアメリカ大統領フィルモアの国書を幕府に提出し、日本との外交関係や通商、アメリカ船への補給などを求めました。

当時の幕府は、外国との交流や貿易を長崎などに限定する対外政策を維持していました。しかし、強力な軍艦を率いたアメリカの要求を、従来のように拒絶できるとは限りませんでした。

幕府は国書を受け取ったうえで回答を先送りし、ペリーは翌年に再び来航すると告げて日本を離れました。

アメリカは日本に何を求めていたのか

アメリカが日本との条約を求めた背景には、太平洋での活動を拡大したいという事情がありました。

19世紀半ばのアメリカは、中国との貿易を拡大し、太平洋を横断する航路の整備を進めようとしていました。また、北太平洋では捕鯨船が活動しており、船員の保護や補給場所の確保も重要な課題でした。

アメリカにとって日本は、太平洋航路の途中に位置する重要な寄港地でした。そこで、アメリカ船が日本の港で水や食料、燃料などを補給できるようにすることを求めたのです。

つまり、ペリーの目的は最初から日本との全面的な自由貿易だけにあったわけではありません。船舶の安全と補給、外交関係の確立も重要な目的でした。

2.ペリーの再来航と幕府との交渉

1854年、ペリーが再び日本へやって来た

1854年2月、ペリーは前年よりも大きな艦隊を率いて日本に再来航しました。幕府が回答を先送りしていたアメリカ大統領の国書について、正式な返答を求めるためです。

幕府は外国との交渉を長崎に限定する従来の方針を維持しようとしましたが、ペリーはこれに応じませんでした。最終的に交渉の場は横浜村に設けられ、幕府側の代表とアメリカ側の使節が会談を重ねることになります。

幕府側の交渉代表は林復斎

幕府側で交渉の中心を担った人物が、林大学頭(林復斎)です。

林復斎は儒学者の家系である林家の当主で、幕府の外交や学問に関わる立場にありました。アメリカ側の要求を受け止めながら、幕府にとって不利な条件をできるだけ抑えることが求められました。

交渉では、開港する港の場所や外国人の行動範囲、補給の方法などが話し合われました。

幕府はアメリカとの貿易をすぐに認めることには慎重でした。一方、アメリカ側は船舶の補給や遭難者の保護を確実にするため、具体的な港の開放を求めました。

こうした交渉を経て、1854年3月31日、両国は日米和親条約に調印しました。

3.日米和親条約の主な内容

日米和親条約は全12条からなる条約です。日本とアメリカの平和と友好を確認するとともに、港の開放や船舶への補給、遭難者の保護などについて定めました。

① 下田と箱館の2港を開く

条約によって、日本は下田と箱館の2港をアメリカ船に開くことになりました。

下田は伊豆半島の南端に位置し、江戸から比較的近い場所にあります。一方、箱館は蝦夷地(現在の北海道)の南部に位置し、北太平洋で活動する船舶にとって重要な寄港地でした。

下田は条約締結後に開かれ、箱館もその後、条約で定められた期限に従って開港しました。

ただし、これらは自由な貿易を行うための港として開かれたわけではありません。主な目的は、アメリカ船への補給や船員の保護などでした。

② 薪・水・食料などを供給する

アメリカ船が下田や箱館に入港した際には、必要な物資を供給することが定められました。

具体的には、薪や水、食料などです。蒸気船にとって燃料の補給は特に重要であり、長距離航海を続けるためには寄港地の確保が欠かせませんでした。

この条件は、アメリカが日本に求めていた太平洋航路の補給拠点という目的に直結していました。

③ 遭難したアメリカ船員を保護する

条約では、日本近海で遭難したアメリカ船や船員を保護することも定められました。

当時、北太平洋や日本近海ではアメリカの捕鯨船などが活動していました。船が難破した場合、乗組員が日本沿岸に漂着する可能性があります。

それまでの日本では、外国人との接触が厳しく制限されていました。しかし、条約によって遭難者を救助し、下田や箱館を通じてアメリカ側に引き渡す仕組みが整えられました。

これは、アメリカが強く求めていた船員保護の実現でした。

④ 下田へのアメリカ領事の駐在を認める

条約では、下田にアメリカの領事を駐在させることも認められました。

領事とは、外国に滞在する自国民の保護や、貿易・外交に関する実務などを担当する外交官です。

アメリカ領事の駐在が認められたことで、日本とアメリカの間に継続的な外交上の窓口が設けられることになりました。

その後、1856年にはタウンゼント・ハリスが初代アメリカ総領事として下田に着任し、通商条約の締結を求める交渉を進めていきます。

⑤ 最恵国待遇を認める

日米和親条約には、最恵国待遇に関する規定も盛り込まれました。

これは、日本が将来ほかの国にアメリカより有利な条件を認めた場合、アメリカにも同様の条件を適用するというものです。

たとえば、日本が別の国に対して新たな港の利用や特別な待遇を認めた場合、アメリカもその利益を受けられる仕組みです。

この規定は、後に結ばれる通商条約にも影響を与えました。日本にとっては、ほかの国との交渉結果がアメリカにも及ぶ可能性を持つ条件だったのです。

4.日米和親条約で日本は貿易を認めたのか?

日米和親条約について、特に注意したいのが貿易の扱いです。

条約によって下田と箱館が開かれたため、日本とアメリカの自由貿易がすぐに始まったと誤解されることがあります。しかし、日米和親条約には本格的な通商を認める規定はありませんでした。

幕府は、アメリカ船への補給や遭難者の保護には応じたものの、自由な貿易を開始することには慎重でした。

これは、外国との貿易を拡大すれば、国内の物価や経済、政治秩序に大きな影響が出ると考えていたためです。

そのため、日米和親条約は、外交関係の確立と限定的な港の開放を中心とする条約でした。

本格的な貿易が始まるのは、1858年の日米修好通商条約の締結以降です。

5.日米和親条約は日本にとって不平等条約だったのか?

日米和親条約は、後の日米修好通商条約と同じ意味での不平等条約と単純に評価することはできません。

日米修好通商条約では、領事裁判権や関税自主権の問題など、日本に不利な条件が含まれました。一方、日米和親条約の中心は、港の開放や補給、遭難者の保護などです。

ただし、最恵国待遇はアメリカに一方的に認められた規定であり、両国の立場が完全に対等だったわけではありません。

また、条約締結の背景には、アメリカ艦隊の軍事力を前にした幕府の判断がありました。交渉の場で幕府が自由に条件を決められたわけではなく、軍事的な圧力が存在していたことも忘れてはいけません。

日米和親条約は、後の不平等条約体制につながる最初の重要な外交上の転換点だったといえます。

6.日米和親条約が江戸幕府に与えた影響

鎖国体制が大きく変化した

日米和親条約の締結によって、幕府はアメリカとの公式な外交関係を築きました。

日本はそれまでにもオランダや中国、朝鮮、琉球などと関係を持っていました。そのため、完全に外国との接触がなかったわけではありません。

しかし、アメリカとの条約締結は、欧米諸国との外交関係を広げていく大きな転換点となりました。

幕府の外交方針をめぐる対立が深まった

開国を受け入れた幕府に対して、国内では強い反発も生まれました。

外国との交流を制限する従来の政策を維持すべきだと考える人々は、幕府が外国の要求に応じたことを批判しました。

やがて、外国勢力を追い払うべきだとする攘夷思想や、天皇を政治の中心に据えるべきだとする尊王思想が広がり、尊王攘夷運動へと発展していきます。

開国をめぐる対立は、幕府と朝廷、諸藩の関係にも影響を与え、幕末の政治情勢を複雑にしていきました。

アメリカ以外の国とも条約を結ぶことになった

アメリカとの条約締結は、ほかの欧米諸国との外交関係にも影響を与えました。

イギリス、ロシア、オランダなども日本との条約締結を求めるようになり、幕府は各国との交渉を進めることになります。

さらに1858年には、アメリカ総領事ハリスとの交渉を経て日米修好通商条約が締結されました。その後、イギリス、フランス、ロシア、オランダとも同様の通商条約が結ばれます。

こうして日本は、限定的な港の開放から本格的な貿易へと進み、国際社会との関係を大きく変えていきました。

7.日米和親条約と日米修好通商条約の違い

日米和親条約と日米修好通商条約は、どちらも幕末の開国を考えるうえで重要な条約ですが、その目的と内容は異なります。

項目 日米和親条約 日米修好通商条約
締結年 1854年 1858年
主な目的 外交関係の確立・補給・遭難者保護 本格的な通商関係の開始
港の開放 下田・箱館 神奈川・長崎・新潟・兵庫など
貿易 本格的な自由貿易は認めず 貿易を開始
主な特徴 薪水・食料の供給、領事駐在など 領事裁判権、関税に関する取り決めなど

日米和親条約は、アメリカ船の寄港や補給を認める段階の条約でした。一方、日米修好通商条約は、日本が本格的に貿易を開始するための条約です。

この違いを理解しておくと、1854年の開国から1858年の通商開始までの流れが整理しやすくなります。

まとめ:日米和親条約は日本の開国への第一歩だった

日米和親条約は、1854年3月31日に江戸幕府とアメリカの間で締結された、全12条からなる条約です。

ペリー来航を受けて幕府は交渉に応じ、下田と箱館の開港、アメリカ船への薪水や食料の供給、遭難者の保護、下田への領事駐在などを認めました。

一方で、幕府は本格的な自由貿易を認めることには慎重であり、日米和親条約の段階では通商は開始されませんでした。

しかし、この条約によって日本とアメリカの外交関係が築かれ、欧米諸国との交渉が本格化します。その後の日米修好通商条約や尊王攘夷運動、幕府の政治的動揺へとつながっていきました。

日米和親条約は、単に外国船の寄港を認めた条約ではありません。江戸幕府が従来の対外政策を転換し、日本が幕末という新しい時代へ進む出発点となった重要な出来事なのです。

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