薩長同盟はなぜ成立したのか?坂本龍馬の仲介と倒幕への転換を解説
幕末の日本で、江戸幕府を倒す大きな原動力となったのが、薩摩藩と長州藩の協力関係です。1866年、長年対立していた両藩は「薩長同盟」を結びました。
薩摩藩は現在の鹿児島県、長州藩は現在の山口県にあたり、幕末の政治を動かす有力な勢力でした。しかし、両藩は京都での政局や禁門の変をめぐって激しく対立していました。
なぜ、かつて敵対していた薩摩藩と長州藩は手を結ぶことになったのでしょうか。そこには、幕府の政治に対する不満、両藩それぞれの事情、そして坂本龍馬や中岡慎太郎らの仲介がありました。
薩長同盟の成立過程から盟約の内容、第二次長州征討や倒幕運動への影響まで解説します。
1.薩摩藩と長州藩はなぜ対立していたのか?
薩長同盟が成立する以前、薩摩藩と長州藩は幕末政治の主導権をめぐって対立していました。
長州藩は尊王攘夷運動を主導していた
長州藩は、天皇を尊び外国勢力を排除する「尊王攘夷」を強く主張していました。藩内では急進的な尊王攘夷派が勢力を伸ばし、京都で政治的な影響力を強めていきます。
しかし、1863年の八月十八日の政変によって、長州藩と尊王攘夷派の公家たちは京都から追放されました。さらに1864年の禁門の変では、長州藩が京都御所周辺で薩摩藩や会津藩などと戦い、敗北します。
この戦いで薩摩藩は幕府・会津藩側に立って長州藩と戦ったため、両藩の関係は決定的に悪化しました。
薩摩藩は当初、公武合体を重視していた
一方、薩摩藩は当初、朝廷と幕府が協力して政治を立て直す「公武合体」を重視していました。
薩摩藩の島津久光は、朝廷や幕府の政治に影響力を及ぼそうとし、会津藩などと協力して京都の政局を動かしていました。
そのため、急進的な尊王攘夷運動を進める長州藩とは政治的な立場が異なっていたのです。
しかし、幕府の対応や政治の混乱が続くにつれ、薩摩藩の内部でも幕府に対する見方が変化していきます。特に西郷隆盛や大久保利通らは、幕府中心の政治体制を維持することに限界を感じ始めていました。
2.薩長同盟が必要になった理由
薩摩藩と長州藩が接近した背景には、両藩がそれぞれ抱えていた政治的・軍事的な問題がありました。
長州藩は幕府の再征に備える必要があった
長州藩は禁門の変で敗北した後、第一次長州征討を受け、幕府への恭順を余儀なくされました。
しかし、功山寺挙兵によって藩内の俗論派を退けた後は、軍備を強化して幕府との再戦に備える方針へと転換します。
長州藩にとって、幕府との再戦は避けられない可能性がありました。そのため、武器や軍艦を確保し、他藩との協力関係を築くことが重要だったのです。
薩摩藩も幕府の政治に不満を抱いていた
薩摩藩は幕府と協力する立場から出発しましたが、幕府の政治運営に対する不満を強めていました。
幕府は長州藩を再び討伐しようとしていましたが、薩摩藩はこの方針に積極的に協力しませんでした。長州藩を力で屈服させても、幕府の政治的な問題が解決するとは考えられなかったからです。
また、薩摩藩は独自の政治的影響力を高めるためにも、長州藩との関係を改善する必要がありました。
両藩には、これまでの対立を続けるよりも協力した方が有利になる事情が生まれていたのです。
3.坂本龍馬と中岡慎太郎はどのように仲介したのか?
薩摩藩と長州藩の関係改善に大きく関わったのが、土佐藩出身の坂本龍馬と中岡慎太郎です。
二人は、幕府に対抗するためには有力な藩同士が協力する必要があると考え、両藩の間を取り持ちました。
坂本龍馬の亀山社中が両藩を結びつけた
坂本龍馬は1865年、長崎で亀山社中を組織しました。亀山社中は海運や貿易、航海などに関わる組織で、脱藩浪士たちを中心に活動していました。
龍馬は薩摩藩の支援を受けながら活動しており、西郷隆盛や小松帯刀らとも関係を築いていました。
一方、長州藩は幕府との対立によって武器の調達が難しくなっていました。そこで龍馬らは、薩摩藩の名義を利用した武器購入を仲介します。
薩摩藩が長州藩のために武器を購入し、長州藩はその代わりに薩摩藩へ米を提供するという取引が進められました。
この取引は、両藩が実際に協力するきっかけとなりました。政治的な対立を乗り越えるには、まず実務面で信頼関係を築くことが重要だったのです。
中岡慎太郎も両藩の関係改善に尽力した
中岡慎太郎も、薩摩藩と長州藩の関係改善に力を尽くした人物です。
中岡は土佐藩を脱藩した志士で、長州藩の木戸孝允や薩摩藩の関係者と接触し、両藩が協力する必要性を説きました。
坂本龍馬が亀山社中を通じた実務的な協力を進めたのに対し、中岡も政治的な調整や人脈づくりを通じて同盟成立を後押ししました。
ただし、薩長同盟は龍馬や中岡だけの働きで成立したわけではありません。薩摩藩の西郷隆盛・小松帯刀、長州藩の木戸孝允らが、それぞれの政治的判断によって協力を決断したことが重要でした。
4.薩長同盟はいつ、どこで成立したのか?
薩長同盟は、慶応2年(1866年)1月21日、京都で成立しました。
中心となったのは、長州藩の木戸孝允(桂小五郎)と、薩摩藩の西郷隆盛・小松帯刀らです。坂本龍馬や中岡慎太郎らの仲介を経て、両藩の協力関係が正式に確認されました。
会談では、長州藩の処分問題や、幕府が再び長州藩を攻撃した場合の対応などが話し合われました。
木戸孝允は、薩摩藩が本当に長州藩を支援する意思があるのかを慎重に見極めようとしていました。これまで敵対してきた相手を簡単に信用することはできなかったからです。
そのため、盟約の内容を六つの項目に整理し、後日、坂本龍馬に確認を求めました。
龍馬は慶応2年2月5日、木戸の書簡の裏面に朱書きで内容に相違がないことを記しています。これが宮内庁書陵部に所蔵される「薩長同盟裏書」です。
5.薩長同盟の六か条には何が書かれていたのか?
薩長同盟の盟約は、一般に「六か条盟約」と呼ばれています。
その内容は、単に両藩が仲良くするというものではありません。幕府が長州藩を攻撃した場合の軍事支援や、長州藩の政治的な名誉回復に向けた協力などが盛り込まれていました。
主な内容
- 幕府が長州藩と戦争を始めた場合、薩摩藩は兵力を京都方面へ送り、長州藩を支援する。
- 長州藩が戦いで優勢になった場合、薩摩藩は朝廷に働きかけ、長州藩の立場を回復するよう尽力する。
- 長州藩が一時的に不利になっても、すぐに見捨てず、戦いが続く間に支援する。
- 幕府軍が撤退した場合、薩摩藩は朝廷に働きかけ、長州藩への処分や罪を取り消すよう尽力する。
- 朝廷を利用して政治的な正義を妨げる勢力に対しては、必要に応じて対抗する。
- 両藩は協力し、国家のために尽力する。
特に重要なのは、幕府が長州藩を攻撃した場合、薩摩藩が軍事的・政治的に支援することを約束した点です。
つまり、薩長同盟は単なる友好関係ではなく、幕府との戦争を想定した実質的な軍事・政治協力の取り決めだったのです。
ただし、六か条の内容をそのまま「幕府を倒すための具体的な作戦計画」と理解するのは正確ではありません。盟約の中心は、長州藩への処分問題と、幕府が再征を行った場合の相互支援でした。
6.薩長同盟によって何が変わったのか?
薩長同盟の成立は、幕末の政治情勢を大きく変える出来事となりました。
① 長州藩は幕府との戦争に備えやすくなった
長州藩にとって最大のメリットは、幕府との戦争で薩摩藩の支援を期待できるようになったことです。
幕府が長州藩を再び攻撃した場合、薩摩藩が幕府側に立って長州藩を攻撃する可能性は低くなりました。
さらに、武器購入などの面でも薩摩藩との協力関係を利用できるようになり、軍備を整えるうえで有利になりました。
② 幕府は有力な二藩を同時に敵に回す危険が生まれた
幕府にとって、薩摩藩と長州藩が協力することは大きな脅威でした。
薩摩藩は西日本有数の軍事力と経済力を持ち、長州藩も近代的な軍備を整えていました。この二つの藩が協力すれば、幕府は西日本で強力な対抗勢力に直面することになります。
実際、幕府は1866年に第二次長州征討を実施しますが、薩摩藩は出兵に応じませんでした。長州藩は大島口・芸州口・石州口・小倉口の各戦線で幕府軍と戦い、最終的に幕府軍を退けます。
薩長同盟によって、幕府は長州藩を孤立させることが難しくなっていたのです。
③ 倒幕を目指す勢力がまとまり始めた
薩長同盟の成立によって、幕府に対抗する有力な勢力が結びつきました。
ただし、同盟成立の時点で薩摩藩と長州藩がすぐに幕府打倒を実行したわけではありません。両藩はそれぞれの事情を抱えながら、政治的・軍事的な協力関係を深めていきました。
その後、幕府の権威が低下すると、薩摩藩と長州藩は倒幕運動の中心となっていきます。
7.薩長同盟の成立後、坂本龍馬はどうなったのか?
薩長同盟成立後も、坂本龍馬は幕末の政治に関わり続けました。
しかし、同盟成立直後の1866年1月23日、龍馬は京都伏見の寺田屋で幕府側の役人に襲撃されます。これは一般に「寺田屋遭難」と呼ばれる事件です。
龍馬は負傷しながらも、長府藩士の三吉慎蔵らの助けを得て脱出しました。
その後、龍馬は薩摩藩の支援を受けて療養し、妻のお龍とともに薩摩を訪れます。この旅は、日本の新婚旅行の先駆けとして紹介されることもあります。
龍馬はその後も、土佐藩の後藤象二郎らと協力し、大政奉還につながる政治構想を進めました。
しかし、慶応3年(1867年)11月15日、京都の近江屋で何者かに襲撃され、命を落とします。薩長同盟の成立から約1年10か月後のことでした。
8.薩長同盟は明治維新にどのような影響を与えたのか?
薩長同盟は、明治維新に向けた政治的・軍事的な協力関係の基盤となりました。
第二次長州征討で幕府軍が敗北すると、幕府の軍事的な威信は大きく低下します。その後、薩摩藩と長州藩は倒幕を目指す勢力として連携を強めていきました。
1867年には、土佐藩の後藤象二郎らを通じて大政奉還の動きが進み、10月に徳川慶喜が政権を朝廷へ返上します。
しかし、これによって政治的な対立が解消されたわけではありません。薩摩藩や長州藩などの倒幕派は、王政復古の大号令によって新しい政治体制を打ち立てようとします。
その後、旧幕府勢力との間で戊辰戦争が始まり、最終的に明治新政府が全国の政治的主導権を握ることになりました。
薩長同盟は、明治維新を直接実現したものではありません。しかし、幕府に対抗する有力な二藩を結びつけ、倒幕運動を進めるうえで欠かせない転換点となったのです。
まとめ:薩長同盟は幕府に対抗する勢力を結びつけた
薩長同盟は、かつて敵対していた薩摩藩と長州藩が、幕府に対抗するために協力関係を築いた歴史的な出来事でした。
- 薩摩藩と長州藩は、京都での政局や禁門の変をめぐって対立していた。
- 長州藩は幕府の再征に備え、薩摩藩は幕府の政治運営に不満を強めていた。
- 坂本龍馬や中岡慎太郎らが両藩の関係改善を仲介した。
- 1866年1月21日、木戸孝允・西郷隆盛・小松帯刀らの間で盟約が成立した。
- 盟約には、幕府が長州藩を攻撃した場合の軍事支援や政治的な協力が盛り込まれた。
- 薩長同盟は、第二次長州征討やその後の倒幕運動を支える重要な基盤となった。
薩長同盟の意義は、単に二つの藩が仲直りしたことではありません。幕府に対抗する力を持つ二つの勢力が結びつき、幕末の政治構造そのものを変えるきっかけをつくったことにあります。
坂本龍馬らの仲介と、両藩の政治的な決断によって成立した薩長同盟は、明治維新へ向かう歴史の大きな転換点だったのです。
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