第二次長州征討はなぜ起きたのか?幕府の再征と長州藩の勝利を解説
幕末の1866年、江戸幕府は長州藩を再び武力で討伐しようとしました。これが「第二次長州征討」です。長州藩では「四境戦争」とも呼ばれ、幕府軍と長州軍が大島口・芸州口・石州口・小倉口の四つの方面で激突しました。
幕府側は多数の藩を動員し、兵力では長州藩を大きく上回っていました。しかし、実際の戦闘では近代化を進めた長州藩が各地で善戦し、幕府軍を退けます。
なぜ幕府は再び長州藩を攻めたのでしょうか。そして、圧倒的な兵力差を覆した長州藩の強さとは何だったのでしょうか。第二次長州征討の経緯と結果を解説します。
1.第二次長州征討はなぜ行われたのか?
第二次長州征討の背景には、第一次長州征討後も長州藩が幕府の思いどおりにならなかったことがあります。
1864年の禁門の変で敗北した長州藩は、第一次長州征討を前にして幕府に恭順する姿勢を示しました。禁門の変に関わった三人の家老を切腹させるなど、幕府側の要求を受け入れ、いったんは戦争を回避します。
しかし、その後の長州藩では高杉晋作らが功山寺で挙兵し、藩内の主導権を幕府への恭順を進める俗論派から奪いました。
新たに主導権を握った勢力は、表向きには幕府に恭順しながら、軍備を強化する「武備恭順」の方針を採ります。長州藩は西洋式の銃や軍事制度を取り入れ、幕府との再戦に備え始めました。
幕府にとって、長州藩が独自の軍事力を強化し、幕府の命令に従わない状態を続けることは看過できませんでした。
そこで幕府は1865年、長州藩への再征を決定します。朝廷から再征の勅許を得たうえで諸藩に出兵を命じ、長州藩を再び武力で従わせようとしたのです。
2.幕府軍と長州藩の戦力差
第二次長州征討では、幕府は広島藩や彦根藩など多くの諸藩に出兵を命じました。兵力では幕府側が圧倒的に優勢でした。
しかし、幕府軍には大きな問題がありました。それは、参加する諸藩の足並みがそろっていなかったことです。
各藩にはそれぞれの事情があり、長州藩との戦争に積極的ではない藩もありました。特に薩摩藩は幕府からの出兵要請に応じませんでした。
一方、長州藩は第一次長州征討後、軍備の近代化を進めていました。身分にとらわれず兵士を集めた奇兵隊などの諸隊を整備し、西洋式の銃や戦術を積極的に取り入れていたのです。
さらに、藩内の政治的な対立を乗り越え、萩・長府・徳山・清末などの長州側の勢力が一致して徹底抗戦する姿勢を固めていました。
つまり、幕府軍は兵力で勝りながらも統一した作戦を取りにくく、長州軍は規模では劣っていても、近代的な装備と戦意を備えていたのです。
3.薩長同盟の成立が長州藩を支えた
第二次長州征討を理解するうえで重要なのが、薩長同盟です。
長州藩と薩摩藩は、かつて京都での政局や禁門の変をめぐって激しく対立していました。しかし、幕府の権力を強めることに疑問を抱く薩摩藩と、幕府の圧力に抵抗する長州藩は、次第に接近していきます。
坂本龍馬や中岡慎太郎らの仲介もあり、1866年1月、薩摩藩と長州藩は倒幕に向けた協力関係を結びました。
薩摩藩は幕府の出兵要請を拒否しただけでなく、長州藩の武器調達などを間接的に支援しました。長州藩は薩摩藩との関係改善によって、軍備を整えるうえでも有利な状況を得たのです。
ただし、薩摩藩が長州軍とともに四つの戦線で大規模に戦ったわけではありません。重要なのは、幕府側の動員に協力せず、長州藩を間接的に支えたことでした。
4.第二次長州征討の開戦!四つの戦線で何が起きたのか
慶応2年(1866年)6月、幕府軍と長州軍の戦闘が始まります。戦場は長州藩の四つの境界に広がったため、この戦争は「四境戦争」とも呼ばれます。
大島口:高杉晋作の奇襲で幕府軍を撃退
最初に大きな戦闘が始まったのが、周防大島を舞台とする大島口です。
6月7日、幕府側の軍艦が周防大島に砲撃を加え、松山藩兵などが上陸しました。長州側の守備兵は苦戦し、島の一部は幕府軍に占領されます。
しかし、長州側は反撃の機会をうかがっていました。高杉晋作は軍艦「丙寅丸」に乗り込み、6月13日未明に幕府側の艦船へ奇襲を仕掛けます。
この攻撃によって幕府軍は混乱し、長州軍は反撃に転じました。第二奇兵隊などの部隊も上陸して戦い、周防大島を奪還します。
大島口の戦いは、長州軍が幕府軍に対して優位に立つきっかけとなりました。高杉晋作の大胆な海上攻撃は、長州軍の士気を高める重要な出来事だったのです。
芸州口:小瀬川周辺で激しい攻防が続く
芸州口は、現在の広島県と山口県の県境にあたる小瀬川周辺を中心とした戦線です。
幕府側は広島藩や彦根藩などの兵力を投入し、長州藩への進攻を試みました。これに対して長州軍は、近代的な銃や散兵戦術を活用して抵抗します。
この方面では激しい銃撃戦が繰り広げられ、幕府側は兵力の優位を生かしきれませんでした。長州軍は各地で防戦し、幕府軍の進攻を食い止めます。
芸州口は四つの戦線のなかでも戦闘が長期化した地域の一つであり、幕府軍は長州藩を容易に屈服させることができませんでした。
石州口:大村益次郎の指揮で浜田城が落城
石州口は、現在の島根県西部にあたる石見方面から長州藩に進攻する戦線です。
この方面で長州軍を指揮した重要人物が、大村益次郎でした。
大村は西洋式の軍事知識を生かし、兵力の配置や銃撃戦の運用などを工夫しました。長州軍は幕府側の諸藩を相手に攻勢を強め、石見方面へ進出していきます。
戦いの結果、浜田藩の拠点である浜田城が陥落しました。浜田藩主の松平武聰は城を離れ、石州口では長州軍が大きな勝利を収めます。
大村益次郎の軍事的な能力と、長州藩が進めてきた軍制改革の成果が表れた戦いでした。
小倉口:高杉晋作らが小倉城を攻略
小倉口は、現在の福岡県北九州市周辺を舞台とした戦線です。関門海峡を挟んで長州藩と小倉藩が向かい合う重要な地域でした。
長州軍は高杉晋作らの指揮のもとで小倉藩の領内に進攻します。海上からの攻撃も行われ、関門海峡周辺では激しい戦闘が続きました。
幕府側の小倉藩は抵抗を続けましたが、長州軍の攻勢を抑えることができませんでした。1866年8月には小倉城が放棄され、城下の一部も戦火に巻き込まれます。
ただし、小倉口の戦闘は小倉城の陥落ですぐに終わったわけではありません。その後も周辺地域で戦闘が続き、長州軍は優位を保ちながら戦いを進めました。
5.なぜ長州藩は幕府軍に勝利できたのか?
第二次長州征討では、兵力で劣っていた長州藩が幕府軍を各地で退けました。その理由は、単に武器が新しかったからだけではありません。
① 西洋式の軍事制度と武器を取り入れていた
長州藩は第一次長州征討後、軍制改革を進めていました。西洋式の銃を導入し、従来の武士による戦い方にこだわらない軍隊を整備していたのです。
奇兵隊などの諸隊は、身分にとらわれず人材を集めており、従来の藩兵とは異なる柔軟な軍事組織として機能しました。
② 大村益次郎や高杉晋作らに優れた指揮官がいた
長州軍には、大村益次郎や高杉晋作をはじめ、軍事的な知識と実行力を備えた人物がいました。
大村は石州口などで近代的な戦術を活用し、高杉は大島口や小倉口などで積極的な作戦を展開しました。
各方面の状況に応じて指揮官が役割を果たしたことも、長州軍の強さにつながりました。
③ 幕府軍は諸藩の連携が不十分だった
幕府軍は多くの藩から兵を集めていましたが、それぞれの藩には異なる利害や事情がありました。
薩摩藩が出兵を拒否したことも、幕府にとって大きな痛手でした。幕府の命令に従って出兵した藩の間でも、戦意や連携に差があったのです。
兵力の多さだけでは、統一された軍事行動を実現できませんでした。
④ 長州藩には徹底抗戦する政治的な意思があった
長州藩は功山寺挙兵後、藩内の政治的な対立を乗り越え、幕府に対抗する方針を固めていました。
藩の存続をかけて戦うという意識が強く、諸隊や各地域の勢力が協力して防衛にあたりました。
一方の幕府軍には、長州藩を討伐することへの積極性に差がありました。この政治的な温度差も、戦局に影響したと考えられます。
6.将軍徳川家茂の死去と休戦
戦局が長州軍に有利に進むなか、幕府にとって大きな問題が発生します。
慶応2年(1866年)7月20日、第二次長州征討の指揮を取る立場にあった第14代将軍・徳川家茂が大坂城で病死しました。
将軍の死去によって幕府の政治体制は不安定になり、戦争を続けることも難しくなります。
幕府は勝海舟を交渉役として派遣し、長州藩との休戦交渉を進めました。9月2日には宮島で休戦協定が結ばれ、幕府軍は撤退していきます。
その後、慶応3年(1867年)1月に戦争は終結しました。
幕府は長州藩を屈服させることができず、第二次長州征討は事実上、長州藩の勝利に終わったのです。
7.第二次長州征討の敗北で幕府の権威は失墜した
第二次長州征討の結果は、幕末の政治情勢に大きな影響を与えました。
幕府は多くの藩を動員し、朝廷の権威も利用して長州藩を討伐しようとしました。しかし、長州藩を屈服させることはできませんでした。
幕府の命令に従って動員された諸藩のなかには、積極的に戦おうとしない藩もありました。幕府の命令が全国の大名を以前のように動かせなくなっていたことも明らかになります。
一方、長州藩は軍事力を維持したまま戦争を終え、倒幕勢力の中心として存在感を高めました。
薩摩藩との協力関係も維持され、両藩は幕府に対抗する有力な勢力となっていきます。
翌1867年には大政奉還が行われ、江戸幕府は政権を朝廷に返上します。第二次長州征討の敗北は、幕府の軍事的・政治的な限界を示し、幕府崩壊を加速させた重要な出来事だったのです。
まとめ:第二次長州征討は幕府の衰退を決定づけた戦いだった
第二次長州征討は、幕府が長州藩を再び従わせようとして起こした戦争でした。しかし、近代化を進めた長州藩は四つの戦線で幕府軍を退け、最終的に勝利を収めました。
- 幕府は長州藩の軍備強化と政治的な自立を警戒し、1865年に再征を決定した。
- 長州藩は薩長同盟を結び、薩摩藩の間接的な支援も受けて軍備を整えた。
- 1866年6月、大島口・芸州口・石州口・小倉口で戦闘が始まった。
- 高杉晋作や大村益次郎らの活躍と近代的な軍制によって、長州藩は各地で優位に立った。
- 将軍徳川家茂の死去などを受けて幕府軍は撤退し、長州藩の勝利に終わった。
第二次長州征討は、単なる長州藩と幕府の戦争ではありません。幕府が全国の大名を統率する力を失いつつあることを示し、倒幕運動を加速させた歴史的な転換点でした。
長州藩の勝利によって、幕府に対抗する薩摩・長州の連携はさらに重要になります。そして、幕府を倒すための政治的な動きが本格化していくのです。
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