王政復古の大号令はなぜ出されたのか?小御所会議と徳川慶喜排除の背景を解説
慶応3年(1867年)12月9日、京都で「王政復古の大号令」が発せられました。これは、江戸幕府や摂政・関白など従来の政治機構を廃止し、天皇を中心とする新しい政治体制をつくることを宣言したものです。
同年10月に徳川慶喜が大政奉還を行い、幕府の政権を朝廷に返上したばかりでした。それにもかかわらず、なぜ薩摩藩や岩倉具視らは、徳川家を新しい政治体制から排除しようとしたのでしょうか。
その背景には、徳川家が大政奉還後も政治的な主導権を握ろうとしていたことや、倒幕派と公議政体派の対立がありました。
王政復古の大号令が出された理由、小御所会議での議論、徳川慶喜に求められた辞官納地、そして戊辰戦争へと進む歴史の流れを解説します。
1.王政復古の大号令とは何だったのか?
王政復古の大号令とは、天皇を中心とする政治体制への転換を宣言した政治的な布告です。
慶応3年(1867年)12月9日、京都で発せられました。これによって、江戸幕府だけでなく、摂政や関白など従来の朝廷の政治制度も廃止されることになりました。
「王政復古」とは、天皇を中心とする政治に戻すという意味です。新政府は、古代の天皇親政を理想として掲げ、政治制度を根本から改めようとしました。
大号令では、従来の政治機構に代わって、次の三つの役職を設けることが定められました。
- 総裁:新政府の最高位に置かれた役職。
- 議定:新政府の重要な政策を議論する役職。
- 参与:政策の立案や実務を担う役職。
この三職を中心に、新しい政治体制を整えることが目指されました。
重要なのは、王政復古の大号令が単に天皇の権威を強調しただけではなく、徳川幕府を含む従来の政治制度を廃止し、政治の仕組みそのものを変えようとした点です。
2.なぜ王政復古の大号令が必要だったのか?
王政復古の大号令が出された背景には、大政奉還後も徳川慶喜が強い政治的影響力を保っていたことがあります。
大政奉還後も徳川家の力は残っていた
1867年10月、徳川慶喜は朝廷に政権を返上しました。しかし、大政奉還によって徳川家の領地や経済力、軍事力がなくなったわけではありません。
徳川家は全国最大級の領地を持つ大名家であり、慶喜自身も政治的な経験と能力を備えていました。
そのため、大政奉還後に諸藩の代表者が参加する新しい政治体制がつくられれば、徳川家が引き続き中心的な役割を果たす可能性がありました。
慶喜にとっては、幕府という制度を手放しても、徳川家の影響力を維持できれば政治的な主導権を保つ道が残されていたのです。
薩摩藩や長州藩は徳川家の影響力を警戒した
一方、薩摩藩や長州藩を中心とする倒幕派は、徳川家が新しい政治体制でも大きな力を持つことを警戒していました。
幕府が政権を返上しただけでは、徳川家を中心とする政治体制が形を変えて続く可能性があったからです。
特に薩摩藩の大久保利通や公家の岩倉具視らは、徳川家の政治的な影響力を排除し、天皇を中心とする新政府をつくる必要があると考えていました。
つまり、大政奉還によって幕府の政権独占は終わりましたが、誰が新しい日本の政治を主導するのかという問題は解決していなかったのです。
3.王政復古を主導した岩倉具視と大久保利通
王政復古の大号令を実現するうえで重要な役割を果たしたのが、岩倉具視と大久保利通です。
岩倉具視はなぜ倒幕派に接近したのか?
岩倉具視は公家出身の政治家で、幕末の朝廷政治に大きな影響力を持っていました。
当初は公武合体を推進し、朝廷と幕府が協力して政治を立て直すことを目指していました。しかし、幕府の政治運営に対する不満が高まると、次第に幕府の影響力を排除する方向へと動いていきます。
岩倉は朝廷の権威を利用し、薩摩藩などの有力勢力と連携して新しい政治体制を実現しようとしました。
大久保利通は武力倒幕も視野に入れていた
大久保利通は薩摩藩の政治家で、西郷隆盛や木戸孝允らとともに明治維新を主導する人物です。
大久保は、幕府が政権を返上しても徳川家が政治の中心に残るなら、抜本的な政治改革は難しいと考えていました。
そのため、岩倉具視と連携し、徳川家を排除した新政府をつくるための政治的な準備を進めます。
ただし、王政復古の大号令は岩倉や大久保だけで実現したものではありません。薩摩藩・長州藩の軍事力、朝廷内部の協力者、そして新政府に参加する諸藩の政治的な思惑が重なって成立したものでした。
4.王政復古の大号令はどのように実行されたのか?
王政復古の大号令は、慶応3年12月9日に京都で実行されました。
この日、薩摩藩などの兵力が京都御所周辺を警備し、朝廷内の政治体制を一気に変更する動きが進められます。
従来の摂政・関白などの役職が廃止され、新たに総裁・議定・参与の三職が設置されました。
これにより、徳川幕府の政治機構だけでなく、従来の朝廷の仕組みも改められることになりました。
新政府の中心から徳川慶喜は外され、徳川家を含まない政治体制がつくられます。
この一連の動きは、武力を背景に朝廷の政治体制を一変させたことから、一般に「王政復古のクーデター」とも呼ばれています。
5.小御所会議では何が話し合われたのか?
王政復古の大号令が出された同じ日の夜、京都御所の小御所で重要な会議が開かれました。これが「小御所会議」です。
議題は、大政奉還を行った徳川慶喜を新しい政治体制のなかでどう扱うかという問題でした。
倒幕派は徳川慶喜の辞官納地を求めた
岩倉具視や大久保利通ら倒幕派は、徳川慶喜に対して「辞官納地」を求めました。
辞官とは、慶喜が内大臣などの官職を辞めることです。納地とは、徳川家が持つ領地を朝廷に返上することを意味します。
倒幕派は、慶喜が官職と領地を保持したままでは、徳川家が新政府のなかでも強い影響力を持ち続けると考えていました。
そのため、慶喜の政治的・経済的な力を削ぐ必要があると主張したのです。
山内容堂や松平春嶽は慶喜の排除に反対した
これに反対したのが、土佐藩の山内容堂や越前藩の松平春嶽らでした。
彼らは、徳川慶喜が大政奉還を行った以上、徳川家を新しい政治体制から排除する必要はないと考えていました。
山内容堂らが目指していたのは、徳川家を含む有力諸侯が参加する政治体制です。これを「公議政体論」と呼びます。
公議政体派にとって、慶喜を排除することは政治的な対立を深めるだけであり、諸藩が協力する新しい政府をつくるという目的にも反するものでした。
小御所会議はどのように決着したのか?
会議では、徳川慶喜の処遇をめぐって激しい議論が交わされました。
山内容堂らは慶喜を新政府に参加させるべきだと主張しましたが、岩倉具視らは徳川家の影響力を排除する必要性を訴えました。
最終的には、徳川慶喜に辞官納地を求める方針が決まり、徳川家の政治的な影響力を削ぐ方向へと進みます。
ただし、この時点で徳川家の全領地が直ちに没収されたわけではありません。辞官納地をめぐる交渉はその後も続き、慶喜側の対応や諸藩の動きによって政治情勢はさらに複雑になっていきました。
6.徳川慶喜はなぜ辞官納地に反発したのか?
徳川慶喜にとって、辞官納地は受け入れがたい要求でした。
大政奉還によって政権を朝廷に返したにもかかわらず、さらに官職と領地まで返上することになれば、徳川家の政治的・経済的な基盤は大きく失われます。
慶喜は、徳川家が新しい政治体制に参加する道を残したいと考えていました。ところが、王政復古の大号令と小御所会議によって、その道は大きく閉ざされることになります。
また、旧幕府側の大名や家臣たちにとっても、徳川家の領地を返上させるという決定は受け入れがたいものでした。
こうして新政府側と旧幕府側の対立は深まり、政治的な交渉だけで解決することが難しくなっていきます。
7.王政復古の大号令はなぜ戊辰戦争につながったのか?
王政復古の大号令と小御所会議によって、徳川家を政治の中心から排除する動きが強まりました。
しかし、旧幕府側はこの決定に強く反発します。京都では薩摩藩などの新政府側と、旧幕府側の軍事的な緊張が高まっていきました。
さらに、江戸では薩摩藩邸の焼き討ちなど、旧幕府側と薩摩藩の対立を激化させる事件が起きます。
こうした状況のなか、慶応4年(1868年)1月3日、京都南部の鳥羽・伏見で新政府軍と旧幕府軍が衝突しました。これが戊辰戦争の始まりです。
鳥羽・伏見の戦いでは、新政府軍が勝利しました。朝廷から旧幕府軍を朝敵とする扱いが示されたことで、旧幕府側は政治的にも不利な立場に追い込まれます。
徳川慶喜は大坂から江戸へ戻り、旧幕府側は各地で新政府軍と戦うことになりました。
王政復古の大号令は、それ自体が戊辰戦争を直接引き起こした唯一の原因ではありません。しかし、徳川家の処遇をめぐる対立を決定的に深め、内戦へ向かう重要な転換点となったのです。
8.王政復古の大号令が明治維新に与えた影響
王政復古の大号令は、江戸幕府に代わる新しい政治体制をつくる出発点となりました。
それまで日本の政治は、幕府と朝廷、各藩の複雑な関係によって動いていました。しかし、王政復古によって幕府の政治機構が廃止され、天皇を中心とする新政府が政治の主導権を握ることになります。
もちろん、新政府が発足しただけで全国を統一できたわけではありません。旧幕府勢力との戦争を通じて、政治的・軍事的な主導権を確立する必要がありました。
戊辰戦争を経て新政府は全国へ支配を広げ、明治2年(1869年)には版籍奉還、明治4年(1871年)には廃藩置県を実施します。
王政復古の大号令は、幕府中心の政治から近代国家の建設へと向かう一連の改革の出発点の一つだったのです。
まとめ:王政復古の大号令は徳川家を排除する政治転換だった
王政復古の大号令は、大政奉還後も強い影響力を持っていた徳川家を政治の中心から外し、天皇を中心とする新しい政治体制をつくるために発せられました。
- 1867年10月の大政奉還後も、徳川慶喜と徳川家は大きな政治的・経済的影響力を持っていた。
- 岩倉具視や大久保利通らは、徳川家を排除した新政府をつくろうとした。
- 1867年12月9日、王政復古の大号令が発せられ、幕府や摂政・関白など従来の政治機構が廃止された。
- 同日の小御所会議では、徳川慶喜の辞官納地を求める方針が決まった。
- 山内容堂や松平春嶽ら公議政体派は、徳川慶喜を新政府に参加させるべきだと主張した。
- 徳川家の処遇をめぐる対立は深まり、1868年1月の鳥羽・伏見の戦いから戊辰戦争へと発展した。
王政復古の大号令は、単に古い政治制度を廃止した出来事ではありません。大政奉還後も続いていた徳川家と倒幕派の主導権争いに決着をつけようとする政治的な転換でした。
しかし、その決断は旧幕府側の反発を招き、日本は戊辰戦争へと進んでいきます。明治維新の実現には、政治制度の変更だけでなく、旧幕府勢力との対立を乗り越える必要があったのです。
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