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徳川慶喜はなぜ江戸城を明け渡したのか?勝海舟と西郷隆盛による無血開城を解説

徳川慶喜はなぜ江戸城を明け渡したのか?勝海舟と西郷隆盛による無血開城を解説

1868年4月、江戸城は新政府軍に明け渡されました。江戸幕府の本拠地である江戸城が、ほとんど大規模な戦闘を起こすことなく新政府側に引き渡されたのです。

この出来事は「江戸城の無血開城」と呼ばれています。

鳥羽・伏見の戦いで旧幕府軍が敗れた後、新政府軍は江戸へ進軍し、徳川慶喜の追討と江戸城の接収を進めていました。江戸城の総攻撃も計画されており、江戸の町が戦場になる危険が迫っていたのです。

その危機を回避するために交渉したのが、旧幕府側の勝海舟と新政府軍の西郷隆盛でした。また、両者の会談を実現させるうえでは山岡鉄舟も重要な役割を果たしました。

なぜ徳川慶喜は江戸城を明け渡したのか。勝海舟と西郷隆盛はどのような交渉を行ったのか。江戸城の無血開城が実現した背景と、その後の戊辰戦争への影響を解説します。

目次

1.江戸城の無血開城とは何だったのか?

江戸城の無血開城とは、1868年4月11日に江戸城が新政府軍へ明け渡された出来事です。

当時、鳥羽・伏見の戦いに勝利した新政府軍は、徳川慶喜を追討するため東征軍を編成し、江戸へ向かっていました。

旧幕府側は江戸を守るための軍事力を持っていましたが、新政府軍との戦力差や政治的な状況を考えると、全面的な戦争を続けることは困難でした。

そこで勝海舟らは新政府軍との交渉を進め、江戸城を明け渡す代わりに、徳川慶喜の処遇や徳川家の存続などについて話し合いました。

その結果、江戸城の総攻撃は回避され、江戸の町が大規模な戦火に包まれる事態を避けることができました。

なお、4月11日は江戸城の引き渡しの日です。新政府軍の大総督らが江戸城に入城したのは4月21日であり、城の引き渡しと新政府軍の本格的な入城は区別して理解する必要があります。

2.なぜ江戸城は攻撃される危機にあったのか?

江戸城の無血開城を理解するには、鳥羽・伏見の戦い後の政治情勢を知る必要があります。

鳥羽・伏見の戦いで旧幕府軍が敗北した

1868年1月、京都南部で旧幕府軍と新政府軍が衝突しました。これが鳥羽・伏見の戦いです。

旧幕府軍は兵力で優勢だったとされますが、装備や戦術、錦の御旗による政治的な正統性の面で不利となり、新政府軍に敗れました。

徳川慶喜は大坂城を離れて江戸へ戻り、新政府への恭順を示す方向へと動きます。

徳川慶喜は上野寛永寺で謹慎した

江戸に戻った慶喜は、上野の寛永寺に入り、謹慎生活を送りました。

これは新政府に対して敵対する意思がないことを示すための行動でした。慶喜は徳川家の存続を願い、武力衝突を避けようとしていたのです。

しかし、新政府側には慶喜に対して厳しい処分を求める意見もありました。鳥羽・伏見の戦いで旧幕府軍と戦った新政府にとって、慶喜の恭順をそのまま受け入れることは簡単ではありませんでした。

新政府軍は江戸城の総攻撃を計画した

新政府軍は東海道などを進み、江戸へ接近しました。

1868年3月には、江戸城の総攻撃を3月15日に実施する方針が決められます。

江戸城には旧幕府側の兵力が残っており、江戸の町にも多くの住民が暮らしていました。もし総攻撃が実施されれば、城だけでなく市街地にも大きな被害が出る可能性がありました。

こうした危機を回避するため、旧幕府側は新政府軍との交渉を急ぐことになります。

3.勝海舟はなぜ江戸城の明け渡しを決断したのか?

江戸城の無血開城を実現するうえで、旧幕府側の中心となったのが勝海舟です。

勝海舟は幕府の海軍や軍事政策に関わってきた人物で、幕末の政治情勢にも詳しく、海外の軍事事情にも通じていました。

江戸を戦場にすることを避けたかった

勝海舟が最も避けようとしたのは、江戸の町を大規模な戦闘に巻き込むことでした。

江戸は当時、日本最大級の都市です。城下には武士だけでなく、多くの町人や職人、商人が暮らしていました。

新政府軍と旧幕府軍が江戸市中で戦えば、火災や建物の破壊によって多くの住民が犠牲になるおそれがありました。

さらに、戦闘が長引けば、治安の悪化や物資不足などによって市民生活にも深刻な影響が出ます。

勝は、徳川家の面目を守ることだけでなく、江戸の住民や日本全体への被害を抑えることを重視しました。

徳川家の存続も重要な交渉課題だった

勝海舟にとって、江戸城を明け渡すことは単純な降伏ではありませんでした。

徳川慶喜の命を守り、徳川家の家名を存続させることも重要な課題でした。

そのため、勝は新政府軍に対して、江戸城の明け渡しや旧幕府軍の処分などを含む条件を提示し、戦争を避けるための交渉を進めました。

江戸城の無血開城は、勝海舟が徳川家の将来と江戸の住民の安全を考え、現実的な選択をした結果でもあったのです。

4.山岡鉄舟はなぜ西郷隆盛に会いに行ったのか?

勝海舟と西郷隆盛の会談が実現する前に、重要な役割を果たした人物が山岡鉄舟です。

山岡鉄舟は旧幕臣で、剣術や禅に通じた人物でした。鳥羽・伏見の戦い後も徳川家に仕え、慶喜の恭順を新政府側に伝える役割を担いました。

山岡鉄舟は駿府で西郷隆盛と会談した

1868年3月、山岡鉄舟は勝海舟の書状を携え、新政府軍の参謀である西郷隆盛に会うため駿府へ向かいました。

当時、西郷は江戸へ進軍する東征軍の一員として活動していました。山岡は西郷に対し、徳川慶喜が恭順の意思を持っていることを伝え、徳川家の処遇について交渉します。

この会談によって、勝海舟と西郷隆盛が直接話し合う道が開かれました。

山岡鉄舟の役割は何だったのか?

山岡鉄舟の功績は、勝海舟と西郷隆盛の間をつなぎ、交渉の土台をつくったことです。

勝海舟が旧幕府側の代表として西郷と交渉する前に、山岡が徳川慶喜の恭順の意思を伝えたことで、話し合いを進めるための道筋ができました。

江戸城の無血開城は勝と西郷の会談だけで実現したわけではありません。山岡鉄舟による事前交渉も重要な役割を果たしていたのです。

5.勝海舟と西郷隆盛は何を話し合ったのか?

江戸城の無血開城を決定づけたのが、勝海舟と西郷隆盛による会談です。

両者は1868年3月13日と14日、江戸の薩摩藩邸で交渉しました。

勝海舟は江戸総攻撃の回避を求めた

勝海舟は、西郷隆盛に対して江戸城の総攻撃を避けるよう求めました。

江戸で戦闘が起きれば、住民の生命や財産が失われるだけでなく、混乱に乗じて外国勢力が介入する危険もあると訴えたとされています。

また、旧幕府側が戦争を避けるために江戸城を明け渡す意思を持っていることも伝えました。

西郷隆盛は何を求めたのか?

西郷隆盛は新政府軍の立場から、徳川家に対する処分や江戸城の引き渡しなどについて条件を示しました。

交渉では、徳川慶喜の処遇、江戸城の明け渡し、旧幕府軍の武器や軍艦の引き渡しなどが問題となりました。

新政府側としては、旧幕府勢力が再び軍事力を整えて抵抗することを防ぐ必要がありました。そのため、単に城を受け取るだけでなく、旧幕府側の軍事力をどう扱うかも重要な課題だったのです。

江戸城総攻撃は中止された

勝と西郷の交渉によって、江戸城をめぐる大規模な戦闘を避ける方向で話がまとまりました。

新政府側は江戸城の総攻撃を中止し、徳川慶喜の謹慎や江戸城の引き渡しなどを進めることになります。

こうして、江戸を戦火から守るための道が開かれました。

6.江戸城の無血開城はどのように実現したのか?

勝海舟と西郷隆盛の会談で合意が形成された後、江戸城の引き渡しに向けた具体的な手続きが進められました。

新政府側は勅使を江戸城へ派遣し、徳川家に対する処分や城の明け渡しについて正式に伝えます。

その後、1868年4月11日に江戸城は新政府側へ引き渡されました。

この際、徳川家の家名は存続することになり、慶喜は水戸で謹慎することとなりました。徳川家の家督は、田安亀之助(後の徳川家達)が継ぐことになります。

ただし、無血開城によって江戸周辺の戦闘がすべて終わったわけではありません。旧幕府側の兵士のなかには、新政府への抵抗を続ける者もいました。

7.なぜ江戸城の無血開城は実現できたのか?

江戸城の無血開城が実現した背景には、勝海舟と西郷隆盛の交渉だけでなく、双方の政治的・軍事的な事情がありました。

① 勝海舟が徹底抗戦を避けた

勝海舟は、江戸を戦場にすることが徳川家にとっても住民にとっても大きな損失になると判断していました。

そのため、軍事的な抵抗を続けるよりも、交渉によって徳川家の存続を図る道を選びました。

② 西郷隆盛も大規模な市街戦を望まなかった

西郷隆盛にとっても、江戸で大規模な戦闘を行うことは望ましい選択ではありませんでした。

江戸を攻撃すれば、住民の犠牲や都市の破壊が避けられず、新政府の統治にも悪影響を与える可能性がありました。

また、江戸の戦闘が長期化すれば、新政府軍にとっても兵力や物資の負担が大きくなります。

③ 徳川慶喜が恭順の姿勢を示した

徳川慶喜が上野寛永寺で謹慎し、新政府に対して恭順の姿勢を示していたことも重要でした。

慶喜が江戸で徹底抗戦を命じていれば、勝海舟らが交渉を進めることは難しくなっていたでしょう。

慶喜が戦争回避を選んだことで、旧幕府側には交渉によって事態を収拾する余地が生まれました。

④ 新政府にも早期に江戸を掌握する必要があった

新政府にとって江戸は、政治・経済・軍事の面で非常に重要な都市でした。

江戸を破壊せずに掌握できれば、新しい政治体制を整えるうえでも有利になります。

そのため、新政府側にも大規模な戦闘を避け、比較的早く江戸城を引き渡させることには大きな利点がありました。

8.江戸城の無血開城後、何が起きたのか?

江戸城が引き渡されたことで、徳川幕府の本拠地は新政府の手に渡りました。しかし、旧幕府勢力の抵抗は続きます。

彰義隊が上野で新政府軍と戦った

江戸城の無血開城に不満を持つ旧幕臣たちは、彰義隊を結成しました。

彰義隊は上野の寛永寺を拠点として新政府軍に抵抗します。

1868年5月15日、新政府軍は上野に攻撃を仕掛け、彰義隊を撃破しました。これが上野戦争です。

江戸城は無血で明け渡されましたが、江戸周辺ではその後も戦闘が続いたのです。

戊辰戦争は東北・北海道へ広がった

江戸を掌握した新政府軍は、旧幕府勢力を追って東北地方へ進軍します。

会津藩など新政府に抵抗する諸藩は、奥羽越列藩同盟を結成して対抗しました。

その後、東北地方での戦闘や箱館戦争を経て、1869年に戊辰戦争は終結します。

江戸城の無血開城は、戊辰戦争全体の終結ではありませんでした。しかし、新政府が江戸を掌握し、全国統一へ向かううえで大きな意味を持つ出来事だったのです。

まとめ:江戸城の無血開城は勝海舟と西郷隆盛の交渉で実現した

江戸城の無血開城は、鳥羽・伏見の戦いで敗れた旧幕府側が、新政府軍との全面戦争を避けるために交渉を進めた結果、実現しました。

  • 鳥羽・伏見の戦いで旧幕府軍が敗れ、新政府軍が江戸へ進軍した。
  • 徳川慶喜は上野寛永寺で謹慎し、新政府への恭順を示した。
  • 新政府軍は江戸城の総攻撃を計画していた。
  • 山岡鉄舟が駿府で西郷隆盛と会談し、勝海舟との交渉の道を開いた。
  • 勝海舟と西郷隆盛は1868年3月13日・14日に会談し、江戸城の明け渡しなどについて合意した。
  • 1868年4月11日、江戸城が新政府軍に引き渡された。
  • その後も彰義隊の上野戦争や東北地方での戦闘が続き、戊辰戦争は1869年まで続いた。

江戸城の無血開城は、単に勝海舟と西郷隆盛の個人的な友情によって実現したものではありません。徳川慶喜の恭順、新政府側の政治的判断、江戸の住民を戦火から守ろうとする思惑など、複数の事情が重なった結果でした。

江戸幕府の本拠地であった江戸城が大規模な戦闘なしに明け渡されたことは、明治新政府が全国統一へ向かううえで大きな意味を持ちました。

しかし、旧幕府勢力の抵抗は終わっていませんでした。江戸城の無血開城の後には、彰義隊との戦い、東北地方での戦闘、そして箱館戦争が待ち受けていたのです。

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