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坂下門外の変はなぜ起きたのか?安藤信正襲撃の理由と公武合体政策への影響を解説

坂下門外の変はなぜ起きたのか?安藤信正襲撃の理由と公武合体政策への影響を解説

1862年、江戸城の坂下門外で、幕府の老中・安藤信正が尊王攘夷派の浪士たちに襲撃されました。この事件が「坂下門外の変」です。

安藤信正は、桜田門外の変で井伊直弼が暗殺された後、幕府の政治を主導した人物でした。朝廷との関係を改善するために公武合体政策を進め、孝明天皇の妹・和宮と14代将軍・徳川家茂の結婚を実現させたことでも知られています。

しかし、この政策は尊王攘夷派の反発を招きました。和宮降嫁を幕府の延命策と批判する人々や、外国との通商を認める幕府の外交方針に不満を持つ人々が、安藤を政治的な敵とみなしたのです。

なぜ安藤信正は襲撃されたのでしょうか。事件の背景や実行犯たちの計画、襲撃当日の状況、そして事件後に公武合体政策がどうなったのかを解説します。

目次

1.坂下門外の変とは?1862年に起きた老中襲撃事件

坂下門外の変とは、1862年2月13日(文久2年1月15日)、江戸城の坂下門外で、老中・安藤信正が水戸藩などの浪士たちに襲撃された事件です。

安藤信正は、井伊直弼の死後に幕政の中心人物となり、老中として公武合体政策を推進していました。

襲撃したのは、水戸藩の浪士を中心とする6人です。安藤は背中に傷を負いましたが、命は取り留めました。

事件の概要は次のとおりです。

  • 発生日:1862年2月13日(文久2年1月15日)
  • 場所:江戸城坂下門外
  • 襲撃された人物:老中・安藤信正
  • 襲撃側:水戸藩浪士ら6人を中心とする尊王攘夷派
  • 結果:安藤は負傷して生き残ったが、後に老中を罷免された

坂下門外の変は、1860年の桜田門外の変に続いて、幕府の有力者が江戸城周辺で襲撃された事件でした。

幕府の政治を担う人物が相次いで襲われたことで、幕府の警備体制や政治的な統制力に対する不信感がさらに強まっていきました。

2.なぜ安藤信正は襲撃されたのか?主な3つの理由

① 和宮降嫁を進めた公武合体政策への反発

坂下門外の変の大きな背景となったのが、安藤信正が推進した公武合体政策です。

公武合体とは、朝廷と幕府が協力して政治の安定を図ろうとする考え方です。

井伊直弼が桜田門外の変で暗殺された後、幕府は政治的な権威を回復する必要に迫られていました。そこで安藤信正らは、朝廷との関係を改善するため、孝明天皇の妹・和宮を14代将軍徳川家茂の妻として迎える計画を進めました。

和宮はすでに有栖川宮熾仁親王と婚約していましたが、朝廷と幕府の交渉を経て、1861年に江戸へ向かい、翌1862年に家茂と結婚しました。

幕府にとっては、将軍と皇室の婚姻によって朝廷との結びつきを強め、政治的な正統性を取り戻す狙いがありました。

しかし、尊王攘夷派の志士たちは、この政策を幕府の延命策だと批判しました。

彼らは、幕府が外国との通商を続けているにもかかわらず、皇室との婚姻によって政権を維持しようとしていると考えたのです。

そのため、和宮降嫁を推進した安藤信正は、尊王攘夷派から強い反発を受けることになりました。

② 日米修好通商条約と幕府の外交政策への不満

もう一つの背景は、外国との通商をめぐる問題です。

1858年、幕府は孝明天皇の勅許を得ないまま日米修好通商条約に調印しました。この決定は、外国との通商に反対する人々や、朝廷の権威を重視する人々から強く批判されました。

孝明天皇は外国との通商に反対し、幕府に攘夷の実現を求めていました。

一方、幕府は欧米諸国との軍事力の差を認識しており、外国との衝突を避けながら外交関係を維持する必要があると考えていました。

安藤信正も、幕府の外交方針を維持する立場でした。外国との衝突を避けるためには、条約を守り、外交関係を安定させることが必要だったのです。

しかし、尊王攘夷派にとっては、こうした幕府の姿勢は朝廷の意向に反するものでした。

和宮降嫁と外国との通商問題は、別々の問題ではありません。朝廷と幕府の関係をめぐる政治対立の中で、互いに結びついていたのです。

③ 水戸藩への幕府の強硬な対応

襲撃に参加した浪士たちの多くが水戸藩に関係していたことも重要です。

水戸藩は、徳川斉昭の時代から尊王思想や攘夷論が盛んな藩でした。斉昭は将軍継嗣問題で一橋慶喜を支持し、井伊直弼と対立した人物でもあります。

安政の大獄では、斉昭が永蟄居を命じられ、水戸藩の政治にも大きな影響が及びました。

さらに、孝明天皇から水戸藩に直接伝えられた「戊午の密勅」をめぐって、幕府は返納を求めました。

水戸藩内では、密勅を返納するべきだとする勢力と、返納に反対する勢力が対立します。

幕府は水戸藩に対して強硬な姿勢を取り、藩内の尊王攘夷派の不満は高まっていきました。

安藤信正は、こうした水戸藩への幕府の対応を引き継いだ政治責任者でもありました。そのため、水戸藩の浪士たちから敵視されることになったのです。

3.襲撃を計画したのは誰だったのか?

大橋訥庵が尊王攘夷の行動を呼びかけた

坂下門外の変の計画に関係した人物として知られるのが、宇都宮藩出身の儒学者・大橋訥庵です。

大橋訥庵は、強い尊王攘夷思想を持ち、幕府の外交政策や公武合体政策を批判していました。

特に、和宮降嫁を進めた安藤信正に対して強い不満を持ち、幕府の政治を変えるための行動を計画します。

大橋は水戸藩の尊王攘夷派とも関係を持ち、安藤信正を排除するための計画に関わりました。

しかし、襲撃の直前に別件の嫌疑で捕らえられたため、当日の襲撃には参加していません。

水戸浪士らが襲撃を実行した

実際に安藤信正を襲撃したのは、水戸藩の浪士らを中心とする6人でした。

彼らは、安藤が登城する機会を狙い、江戸城の坂下門外で待ち伏せしました。

襲撃の目的は、安藤信正を排除することで幕府の政治を変え、攘夷を実現する方向へ動かすことにありました。

ただし、襲撃者たちの政治的な考え方や具体的な計画は、全員が完全に一致していたわけではありません。尊王攘夷という共通の立場を持ちながら、幕府への不満や政治改革への期待をそれぞれ抱いていました。

4.坂下門外の変はどのように起きたのか?

① 1862年1月15日、安藤信正が登城する

事件が起きたのは、旧暦の文久2年1月15日です。現在の暦では1862年2月13日にあたります。

この日は、諸大名が将軍に拝謁するために登城する日でした。江戸城周辺には大名の行列や家臣たちが集まり、普段から人通りの多い場所でした。

安藤信正も老中として登城するため、江戸城の坂下門へ向かっていました。

襲撃者たちは、安藤の行列が通る経路や時間を見定め、坂下門外で待ち構えていました。

② 浪士たちが駕籠を襲撃する

安藤信正の行列が坂下門外に差しかかったところで、浪士たちが襲撃を開始しました。

記録によれば、襲撃者側は銃撃をきっかけに攻撃を始め、護衛の武士たちとの間で激しい斬り合いになりました。

安藤の駕籠も襲われましたが、駕籠の背面にあった防護用の布団などが攻撃の勢いを弱めたと伝えられています。

安藤は背中に傷を負いましたが、致命傷には至りませんでした。

襲撃者たちは安藤を討ち取ることに失敗し、護衛の反撃を受けて全員が命を落とす結果となりました。

③ 安藤信正は命を取り留める

桜田門外の変では井伊直弼が暗殺されましたが、坂下門外の変では安藤信正は生き残りました。

安藤は背中に負傷したものの、事件後も職務を続けようとしました。

しかし、老中が登城中に襲撃され、しかも命を奪われなかったとはいえ負傷したことは、幕府にとって大きな政治的問題となりました。

幕府の要職にある人物が、江戸城の門の近くで襲撃されること自体が、幕府の警備や統治能力への不信感を広げる出来事だったのです。

5.坂下門外の変の後、安藤信正はどうなったのか?

① 老中を罷免される

安藤信正は事件で命を取り留めましたが、政治的な立場は大きく揺らぎました。

襲撃を許した責任や、幕府の政治を安定させられなかったことを問われ、1862年4月14日に老中を罷免されます。

その後、安藤は隠居と謹慎を命じられ、同年11月には永蟄居となりました。

幕府の中心人物として公武合体政策を推進してきた安藤は、わずか数か月で政治の表舞台から退くことになったのです。

② 公武合体政策は勢いを失った

安藤信正の失脚は、公武合体政策にも大きな影響を与えました。

公武合体は、朝廷と幕府が協力して政治を安定させようとする政策でした。しかし、和宮降嫁を推進した安藤が襲撃され、さらに老中を罷免されたことで、政策を主導する政治的な力は弱まっていきます。

もちろん、公武合体という考え方自体が直ちに消えたわけではありません。その後も幕府や薩摩藩などによって、朝廷との協力を目指す動きは続きました。

しかし、幕府が主導する公武合体政策は、尊王攘夷派の反発を抑え込むことができず、次第に行き詰まっていきました。

6.坂下門外の変は幕末の政治にどのような影響を与えたのか?

① 幕府の警備体制と統治能力への不信が強まった

桜田門外の変に続いて、坂下門外の変でも幕府の有力者が襲撃されました。

幕府は江戸城を中心に強固な警備体制を整えていましたが、その周辺で相次いで襲撃事件が起きたことは大きな衝撃でした。

幕府の要人が安全を確保できない状況は、政治の安定を求める大名や幕臣にとっても不安材料となりました。

また、政治的な不満を持つ人々が武力によって幕府の政策に抵抗する動きが広がり、幕府の統制力はさらに弱まっていきました。

② 尊王攘夷運動がさらに活発になった

坂下門外の変の後も、尊王攘夷派の活動は続きました。

彼らは、外国との通商を続ける幕府を批判し、朝廷の意向に従って攘夷を実行するよう求めました。

1862年には、薩摩藩の島津久光が兵を率いて上洛し、朝廷の政治に影響を与えるようになります。

また、同年には京都で政治的な緊張が高まり、幕府や諸藩は尊王攘夷派の動きを無視できなくなっていきました。

こうした動きによって、幕末の政治の中心は江戸だけでなく、京都にも移っていくことになります。

③ 諸藩の政治的な発言力が強まった

幕府の権威が低下する一方で、薩摩藩や長州藩などの有力諸藩は、政治に積極的に関わるようになりました。

幕府だけで国の進路を決めることが難しくなり、諸藩が朝廷と結びついて政治改革を求めるようになったのです。

公武合体を進める勢力も、幕府を中心とする体制を維持するだけではなく、諸藩の協力を得る必要に迫られました。

こうして幕府の政治的な主導権は徐々に弱まり、やがて大政奉還や明治維新へとつながっていきます。

7.桜田門外の変と坂下門外の変の違いとは?

坂下門外の変は、桜田門外の変とよく比較される事件です。どちらも江戸城の門の近くで幕府の有力者が襲撃されましたが、結果には大きな違いがありました。

比較項目 桜田門外の変 坂下門外の変
発生年 1860年 1862年
襲撃された人物 井伊直弼 安藤信正
役職 大老 老中
襲撃側 水戸浪士ら18人 水戸浪士ら6人
結果 井伊直弼は死亡 安藤信正は負傷して生存
政治的影響 幕府の権威が大きく低下 安藤失脚、公武合体政策が後退

桜田門外の変は、幕府の最高権力者だった井伊直弼が暗殺された事件です。

一方、坂下門外の変では安藤信正は生き残りましたが、政治的責任を問われて失脚しました。

両事件に共通するのは、幕府の政策に反発する勢力が、武力によって政治を変えようとしたことです。

このような事件が続いたことで、幕府の政治的な権威はさらに揺らいでいきました。

まとめ:坂下門外の変は公武合体政策への反発から起きた事件だった

坂下門外の変は、1862年2月13日に江戸城坂下門外で起きた、老中・安藤信正への襲撃事件です。

背景には、和宮降嫁を進めた公武合体政策への反発、外国との通商をめぐる外交問題、水戸藩への幕府の強硬な対応がありました。

襲撃には水戸藩浪士ら6人が参加し、安藤信正は背中に傷を負いましたが命を取り留めました。しかし、事件後に老中を罷免され、政治の表舞台から退くことになります。

安藤の失脚によって、幕府が主導する公武合体政策は勢いを失いました。

桜田門外の変に続いて坂下門外の変が起きたことは、幕府が国内の政治的対立を抑えきれなくなっていたことを示しています。

その後、尊王攘夷運動はさらに活発になり、薩摩藩や長州藩などの有力諸藩が政治の中心へと進出していきました。

坂下門外の変は、幕府の権威低下と公武合体政策の行き詰まりを象徴する、幕末の重要事件だったのです。

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