七卿落ちとは何だったのか?三条実美ら7人の公家が京都を追われた理由とその後を解説
幕末の京都で起きた「八月十八日の政変」によって、尊王攘夷派の公家7人が京都を追われました。この出来事は「七卿落ち」と呼ばれています。
彼らは長州藩を頼って京都を離れ、その後も政治の表舞台に戻る機会をうかがいました。やがて長州での生活を経て太宰府へ移り、明治維新を迎えることになります。
七卿の中心人物だった三条実美は、明治政府で太政大臣にまで上り詰めました。京都を追われた公家たちは、なぜ長州へ逃れたのでしょうか。そして、失脚した彼らはどのようにして歴史の表舞台へ復帰したのでしょうか。
1. 七卿落ちとは?八月十八日の政変で京都を追われた7人
七卿落ちとは、1863年(文久3年)の八月十八日の政変によって、尊王攘夷派の公家7人が京都を追われ、長州藩へ逃れた出来事です。
当時の京都では、長州藩と尊王攘夷派の公家が朝廷内で大きな影響力を持っていました。しかし、薩摩藩や会津藩などの公武合体派が反撃に出て、御所の警備体制を変更。長州藩は御所の警備を解かれ、尊王攘夷派の公家たちも朝廷から排除されました。
京都に残ることが難しくなった7人は、長州藩士らの警護を受けながら京都を離れます。
この出来事は、単に7人の公家が京都を追放されたというだけではありません。朝廷内で尊王攘夷派が主導権を失い、幕末の政治勢力が大きく再編されるきっかけとなりました。
2. 七卿は誰だったのか?7人の公家を紹介
七卿とは、八月十八日の政変によって京都を追われた次の7人の公家を指します。
- 三条実美(さんじょうさねとみ):尊王攘夷派公家の中心人物。明治政府では太政大臣を務めた。
- 三条西季知(さんじょうにしすえとも):尊王攘夷派に属し、三条実美らと行動をともにした公家。
- 四条隆謌(しじょうたかうた):尊王攘夷派の公家。維新後は新政府に仕えた。
- 東久世通禧(ひがしくぜみちとみ):尊王攘夷派の公家。維新後は開拓長官などを務めた。
- 壬生基修(みぶもとなが):尊王攘夷派に属し、政変後は長州へ逃れた公家。
- 錦小路頼徳(にしきのこうじよりのり):長州藩と関係を持った尊王攘夷派の公家。
- 沢宣嘉(さわのぶよし):尊王攘夷運動に参加し、政変後は長州へ逃れた公家。
7人の中でも、特に重要なのが三条実美です。彼は尊王攘夷派の公家を代表する存在であり、朝廷内で長州藩と連携しながら攘夷運動を進めていました。
一方、東久世通禧や沢宣嘉らも、幕末の政治運動に関わった人物です。七卿落ちは、特定の一人だけではなく、尊王攘夷派の公家グループ全体が政治の中心から排除された事件だったのです。
3. なぜ七卿は京都を追われたのか?政変の背景
長州藩と尊王攘夷派の公家が朝廷で勢力を持っていた
幕末には、外国との条約締結をめぐって幕府への批判が強まっていました。朝廷の権威を重視し、外国勢力を排除しようとする尊王攘夷運動も広がります。
長州藩はこの運動を積極的に推進し、京都では三条実美ら尊王攘夷派の公家と協力して政治への影響力を強めていました。
しかし、急進的な攘夷運動に反発する勢力も存在しました。孝明天皇は外国勢力に警戒心を持っていたものの、急進派によって朝廷の政治が左右されることを望んでいたわけではありません。
薩摩藩と会津藩が反撃した
長州藩と尊王攘夷派の勢力拡大を警戒したのが、薩摩藩と会津藩です。
薩摩藩は公武合体を重視し、朝廷と幕府が協力する政治体制を目指していました。また、会津藩は京都守護職として京都の治安維持を担い、急進的な尊王攘夷派の活動を警戒していました。
両藩は公武合体派の公家らと連携し、1863年8月18日に政変を実行します。
その結果、長州藩は御所の警備を解かれ、三条実美ら7人の公家も朝廷から排除されました。七卿落ちは、この政変によって起きた政治的な敗北だったのです。
4. 七卿はどのように京都を脱出したのか?
八月十八日の政変によって京都での立場を失った七卿は、長州藩を頼ることになります。
政変の翌日にあたる1863年8月19日未明、七卿は妙法院を出発し、長州へ向かいました。長州藩士らが警護にあたり、京都から西へ逃れる道を進みます。
彼らの逃避行は、後世に「七卿落ち」として語り継がれることになりました。
七卿落ちを描いた絵画には、箕笠をかぶった公家たちと、それを警護する武士の姿が描かれています。公家という身分の高い人々が、京都を離れて逃亡しなければならなかったことを象徴する光景です。
彼らにとって長州藩は、単なる逃亡先ではありません。尊王攘夷運動を続けるための政治的な拠点でもありました。
5. 七卿は長州でどのような生活を送ったのか?
長州へ逃れた七卿は、長州藩の保護を受けながら政治的な再起を目指しました。
しかし、長州藩自身も厳しい状況に置かれていました。下関での外国船砲撃に対する報復として、1863年にはアメリカ・フランス軍艦による攻撃を受け、翌1864年には四国艦隊による下関砲撃事件が起こります。
さらに京都では、長州藩が政治的な立場を取り戻そうとする動きが強まり、1864年には池田屋事件や禁門の変が発生しました。
こうした情勢の中で、七卿を取り巻く環境も変化していきます。7人全員が同じ行動を続けたわけではなく、錦小路頼徳は1864年に亡くなり、沢宣嘉も長州を離れました。
その結果、長州藩と行動をともにする公家は5人となり、後に「五卿」と呼ばれるようになります。
6. 五卿はなぜ太宰府へ移されたのか?
長州藩は1864年の禁門の変で敗れ、朝廷から朝敵とみなされる厳しい立場に置かれました。その後、幕府による第一次長州征討も行われます。
長州藩は幕府との対立を抱え、政治的にも軍事的にも難しい状況に追い込まれました。
こうした状況の中、五卿は長州にとどまり続けることが難しくなり、1865年(慶応元年)に太宰府へ移ることになります。
太宰府の延寿王院で暮らす
五卿が滞在したのは、太宰府天満宮の宿坊である延寿王院です。
太宰府は京都から遠く離れた九州にあり、長州藩の政治的な影響力が及ぶ地域でもありました。五卿はここを拠点として、政治情勢の変化を見守ることになります。
延寿王院には、五卿を訪ねて多くの志士が集まりました。西郷隆盛、高杉晋作、桂小五郎(木戸孝允)、中岡慎太郎ら、幕末の重要人物もこの地を訪れています。
そのため、太宰府は単なる滞在先ではなく、倒幕運動に関わる人々が情報を交換し、政治的な動きを進める場所の一つとなりました。
7. 七卿は明治維新でどのように復帰したのか?
1867年、徳川慶喜が大政奉還を行い、江戸幕府による政治体制は大きく揺らぎます。同年12月には王政復古の大号令が出され、新しい政治体制が始まりました。
これにより、かつて京都を追われた公家たちにも復帰の機会が訪れます。
五卿は1867年12月に太宰府を離れ、京都へ戻りました。八月十八日の政変から約4年、彼らは再び朝廷の政治に関わる立場を得ることになります。
三条実美は太政大臣に就任
七卿の中でも、最も大きな政治的成功を収めたのが三条実美です。
王政復古後、三条実美は新政府の要職に就き、明治政府の中枢で活躍しました。1871年には太政大臣となり、太政官制が廃止される1885年までその地位を務めます。
かつて京都を追われた尊王攘夷派の公家が、明治国家の最高位の官職にまで上り詰めたのです。
東久世通禧も明治政府で活躍
東久世通禧も、明治維新後に新政府で重要な役割を担いました。
外国事務総督や神奈川府知事、開拓長官などを歴任し、明治政府の外交や行政に関わりました。
七卿落ちに参加した公家の中には、明治時代に新しい国家づくりを支える立場になった人物もいたのです。
8. 七卿落ちはなぜ幕末史において重要なのか?
七卿落ちが重要なのは、幕末の政治勢力が大きく入れ替わる過程を象徴する出来事だからです。
八月十八日の政変によって、長州藩と尊王攘夷派の公家は京都での政治的な主導権を失いました。しかし、長州藩はその後も政治的な再起を目指し、薩摩藩との関係を変化させていきます。
1866年には薩長同盟が成立し、かつて八月十八日の政変で長州藩を京都から排除した薩摩藩が、今度は長州藩と協力して幕府に対抗するようになります。
また、七卿の中心人物だった三条実美は、明治政府の中枢に復帰しました。政変で失脚した人物が、数年後には新しい国家の政治を担う立場になったことは、幕末の政治情勢がいかに大きく変化したかを示しています。
まとめ:七卿落ちは尊王攘夷派の敗北と再起を象徴する事件
七卿落ちは、1863年の八月十八日の政変によって、三条実美ら尊王攘夷派の公家7人が京都を追われ、長州藩へ逃れた出来事です。
その後、7人はそれぞれ異なる道を歩み、長州に残った公家たちは五卿として太宰府へ移りました。延寿王院では西郷隆盛や高杉晋作ら幕末の志士たちが出入りし、政治的な交流の場となります。
そして1867年、王政復古によって五卿は京都へ戻り、三条実美らは明治政府で重要な役割を果たしました。
七卿落ちは、尊王攘夷派の政治的な敗北を示す一方で、彼らが明治維新へとつながる政治運動の中で再び力を得ていく過程を象徴する出来事だったのです。
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