上野戦争はなぜ起きたのか?彰義隊の結成と新政府軍による壊滅を解説
慶応4年(1868年)5月15日、江戸の上野で旧幕府勢力と新政府軍が激突しました。これが「上野戦争」です。
江戸城はすでに無血開城され、徳川慶喜も新政府への恭順を示していました。しかし、徳川家への忠誠を捨てきれない旧幕臣たちは、彰義隊を結成して上野の寛永寺に集結します。
新政府軍は彰義隊を討伐するため、上野への総攻撃を開始しました。戦闘はわずか1日で決着し、彰義隊は壊滅します。
なぜ彰義隊は結成されたのか。徳川慶喜はどのような立場だったのか。そして、なぜ彰義隊は新政府軍に敗れたのでしょうか。
江戸城の無血開城後に起きた上野戦争の背景、戦闘の経過、敗北の理由と江戸の町に与えた影響を解説します。
1.上野戦争とは何だったのか?
上野戦争とは、慶応4年(1868年)5月15日に江戸の上野で起きた、彰義隊と新政府軍の戦いです。
旧幕臣を中心に結成された彰義隊は、上野の寛永寺を拠点として新政府に抵抗していました。これに対し、新政府軍は大村益次郎らの指揮のもとで攻撃を開始します。
戦闘は上野の山を中心に展開され、彰義隊は新政府軍の銃砲撃によって大きな損害を受けました。夕方までには上野の拠点を失い、敗走します。
この戦いによって江戸における旧幕府勢力の組織的な抵抗は大きく後退しました。
なお、当時の日本は旧暦を使用していたため、上野戦争の日付は「慶応4年5月15日」と記録されます。現在の新暦では1868年7月4日に当たります。
2.彰義隊はなぜ結成されたのか?
彰義隊が結成された背景には、徳川慶喜への忠誠心と、江戸城の無血開城に対する旧幕臣たちの不満がありました。
徳川慶喜は新政府に恭順した
1868年1月、鳥羽・伏見の戦いに敗れた徳川慶喜は大坂城を離れ、江戸へ戻りました。
慶喜は新政府との全面戦争を避けるため、上野の寛永寺で謹慎し、恭順の姿勢を示します。
その後、勝海舟と西郷隆盛の交渉によって江戸城は無血開城され、徳川家は新政府の支配下に置かれることになりました。
江戸城の無血開城に不満を持つ旧幕臣たち
しかし、徳川家に仕えてきた武士たちのなかには、慶喜の恭順や江戸城の明け渡しに納得できない者もいました。
彼らにとって徳川家は長年仕えてきた主君であり、幕府の政治体制が崩壊しても、その忠誠心がすぐに消えるわけではありませんでした。
また、新政府に対する不信感や、旧幕臣としての誇りも抵抗を続ける理由となりました。
彰義隊の結成
こうした旧幕臣たちが集まり、1868年に結成されたのが彰義隊です。
彰義隊は、徳川慶喜を守り、徳川家への忠義を示すことを掲げました。隊の中心人物として知られるのが天野八郎や渋沢成一郎です。
結成当初は旧幕臣たちの集まりとして出発しましたが、次第に江戸の町の人々なども加わり、一定の規模を持つ集団へと成長していきました。
ただし、隊の内部では方針や指導者をめぐる対立もあり、必ずしも一枚岩ではありませんでした。
3.彰義隊はなぜ上野の寛永寺に集まったのか?
彰義隊が拠点としたのは、江戸の上野にある寛永寺でした。
寛永寺は江戸幕府と関係の深い寺院で、徳川将軍家の菩提寺の一つでもありました。慶喜が謹慎していた場所でもあり、徳川家との結びつきが強い場所だったのです。
寛永寺は徳川家と関係が深かった
寛永寺は江戸時代初期に天海によって創建され、徳川将軍家の庇護を受けて発展しました。
そのため、旧幕臣たちにとって寛永寺は徳川家への忠誠を示す象徴的な場所でもありました。
彰義隊が上野に集まったことには、こうした歴史的な背景がありました。
上野は軍事的にも拠点にしやすかった
上野の山は周囲より高い場所にあり、江戸市中を見渡せる地形でした。
寺院の建物や門などもあり、守る側にとっては陣地を構築しやすい場所でした。
一方、新政府軍にとっては、彰義隊が江戸の中心部に近い場所で抵抗を続けることは、治安や新政府の統治にとって大きな問題でした。
4.新政府軍はなぜ彰義隊の討伐を決めたのか?
江戸城の無血開城後も、彰義隊は上野を拠点に活動を続けました。
新政府にとって、旧幕臣たちが江戸の中心部で武装したまま集団を維持している状況は、放置できない問題でした。
江戸の治安を安定させる必要があった
新政府は江戸を掌握したものの、旧幕府の役人や武士、町人などが暮らす巨大都市をすぐに安定させることはできませんでした。
彰義隊の活動が続けば、江戸市中での衝突や反乱が起きる可能性があります。
新政府は江戸の統治を進めるためにも、彰義隊を討伐する必要があると判断しました。
大村益次郎が討伐作戦を指揮した
新政府軍の討伐作戦を指揮した中心人物が、大村益次郎です。
大村は長州藩出身の軍事指導者で、西洋式の軍事知識を持っていました。兵力や火力を組み合わせた作戦を立案し、新政府軍の近代的な軍備を活用しました。
新政府軍には薩摩藩・長州藩・佐賀藩などの兵が参加し、各藩の部隊が上野の複数の方向から攻撃する体制が整えられました。
5.上野戦争はどのように始まったのか?
慶応4年5月15日(1868年7月4日)、新政府軍は上野の彰義隊に対する総攻撃を開始しました。
主な戦闘地域は、上野の黒門口、山王台、谷中方面などです。
黒門口で激しい銃撃戦が起きた
黒門口は上野の山へ入る重要な場所で、彰義隊はここを中心に防御を固めていました。
新政府軍の薩摩藩兵や因州藩兵などが攻撃を仕掛け、彰義隊も銃や刀、槍などを使って抵抗します。
黒門周辺では激しい銃撃戦が繰り広げられ、双方に多くの死傷者が出ました。
谷中方面からも新政府軍が進撃した
新政府軍は黒門口だけでなく、谷中方面など複数の方向から攻撃を進めました。
長州藩や大村藩などの部隊が進撃し、彰義隊の側面や背後を脅かします。
彰義隊は各方面で防戦を続けましたが、新政府軍の組織的な攻撃に次第に押されていきました。
6.新政府軍はなぜ彰義隊に勝てたのか?
彰義隊は上野の地形を生かして抵抗しましたが、最終的には新政府軍に敗れました。その理由には、兵力や火力の差、作戦の違いなどがありました。
① 新政府軍は複数の方向から攻撃した
大村益次郎は、上野の正面だけでなく、側面や背後からも攻撃する作戦を立てました。
彰義隊は黒門口などの防御に兵力を集中させていたため、別方向からの攻撃に対応しきれない場面が生まれました。
新政府軍は複数の部隊を連携させ、彰義隊の防御を崩していきました。
② 新政府軍は大砲を効果的に活用した
上野戦争で大きな威力を発揮したのが、新政府軍の大砲でした。
特に佐賀藩が運用したアームストロング砲は、遠距離から上野の山を砲撃するうえで重要な役割を果たしました。
また、四斤山砲などの火砲も使用され、彰義隊の陣地や寺院の建物に大きな被害を与えました。
彰義隊にも銃や大砲を持つ隊士はいましたが、新政府軍の火砲を組み合わせた攻撃に対抗することは困難でした。
③ 新政府軍は組織的な軍事訓練を受けていた
新政府軍の中心となった諸藩は、幕末から西洋式の軍事制度を取り入れていました。
小銃や大砲の導入だけでなく、部隊編成や訓練、指揮系統の整備も進めていました。
一方、彰義隊は旧幕臣を中心とする集団で、隊員の経験や装備にはばらつきがありました。
個々の隊士が勇敢に戦っても、近代的な軍事組織としての総合力では新政府軍が優勢だったのです。
④ 彰義隊の内部にまとまりがなかった
彰義隊は結成後、指導者や方針をめぐる対立を抱えていました。
当初の中心人物の一人だった渋沢成一郎が隊を離れるなど、内部の結束には問題がありました。
また、徳川慶喜自身は新政府への恭順を選んでいたため、彰義隊の抵抗は慶喜の意向と必ずしも一致していませんでした。
徳川家を守るという目的を掲げながら、主君本人が戦闘を望んでいないという矛盾も、彰義隊の立場を難しくしていたのです。
7.彰義隊はどうなったのか?上野戦争の結末
新政府軍の攻撃によって、彰義隊は次第に上野の拠点を失っていきました。
夕方までには上野の山での戦闘はほぼ決着し、彰義隊の隊士たちは各地へ敗走しました。
彰義隊はわずか1日で壊滅した
上野戦争は、朝から始まった戦闘がその日のうちに決着するという短い戦いでした。
彰義隊は大きな損害を受け、組織としての戦闘能力を失います。
隊士のなかには戦死した者だけでなく、逃亡した者や捕らえられた者もいました。
天野八郎はその後どうなったのか?
彰義隊の中心人物として知られる天野八郎は、上野戦争後も逃亡を続けました。
しかし、のちに捕らえられ、1868年に獄中で病死しました。
彰義隊の指導者たちは戦争によって大きな打撃を受け、組織としての再建は困難になりました。
8.上野戦争は江戸の町にどのような被害を与えたのか?
上野戦争では、寛永寺の建物や周辺の町にも大きな被害が出ました。
戦闘による火災で寛永寺の本坊や根本中堂など、多くの建物が焼失しました。
現在の寛永寺には、当時の戦闘の激しさを伝える旧本坊表門が残されています。門には新政府軍の攻撃による弾痕が見られます。
また、上野周辺の町にも火災が広がり、住民が住まいを失うなどの被害を受けました。
東京都立図書館の資料解説では、戦闘は1日で決着したものの、両軍に多くの死傷者が出て、周辺の町にも大きな影響が及んだことが紹介されています。
江戸城は無血開城されましたが、上野では実際に大規模な戦闘が起き、江戸の町は戦火を免れたわけではなかったのです。
9.上野戦争が明治維新に与えた影響
上野戦争で彰義隊が敗れたことにより、新政府は江戸の支配をさらに強固なものにしました。
江戸城の無血開城だけでは、旧幕府勢力の抵抗を完全に終わらせることはできませんでした。しかし、上野戦争で彰義隊が壊滅したことで、江戸市中における大きな抵抗勢力は排除されました。
新政府は江戸の行政制度を整え、同年7月には江戸を東京と改称します。
一方、旧幕府勢力の抵抗は東北地方や北海道へと続きました。会津戦争や箱館戦争などを経て、戊辰戦争は1869年に終結します。
上野戦争は、江戸の支配権を新政府が確立するうえで重要な戦いだったのです。
まとめ:上野戦争は彰義隊の抵抗を終わらせた戦いだった
上野戦争は、江戸城の無血開城後も続いていた旧幕府勢力の抵抗を、新政府軍が武力によって鎮圧した戦いです。
- 徳川慶喜への忠誠や江戸城の無血開城への不満から、旧幕臣を中心に彰義隊が結成された。
- 彰義隊は徳川家と関係の深い上野の寛永寺を拠点とした。
- 新政府は江戸の治安と統治を安定させるため、彰義隊の討伐を決定した。
- 1868年7月4日(旧暦5月15日)、新政府軍が上野への総攻撃を開始した。
- 大村益次郎の指揮のもと、複数方向からの攻撃や大砲の活用によって彰義隊は追い詰められた。
- 彰義隊はわずか1日で敗北し、組織として壊滅した。
- 寛永寺の建物や上野周辺の町にも火災などの被害が及んだ。
上野戦争は、徳川家への忠誠を守ろうとした旧幕臣たちと、新しい政治体制を確立しようとする新政府が衝突した戦いでした。
江戸城の無血開城によって江戸の支配権は新政府に移りましたが、それに納得できない旧幕臣たちの抵抗は続いていました。上野戦争で彰義隊が敗れたことにより、新政府は江戸の支配をさらに確かなものにしていきます。
しかし、戊辰戦争はまだ終わっていません。戦いの舞台は江戸から東北地方へと移り、旧幕府側に協力する諸藩と新政府軍の間で、さらに激しい戦闘が繰り広げられることになります。
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