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高杉晋作はなぜ功山寺で挙兵したのか?長州藩の内戦と倒幕への転換を解説

高杉晋作はなぜ功山寺で挙兵したのか?長州藩の内戦と倒幕への転換を解説

幕末の長州藩は、1864年に起きた禁門の変で敗北し、さらに四国連合艦隊による下関砲撃を受けて、政治的にも軍事的にも追い詰められていました。

第一次長州征討では幕府への恭順を余儀なくされ、藩内では幕府に従おうとする勢力が主導権を握ります。こうした状況に反発したのが、奇兵隊を創設した高杉晋作でした。

高杉は元治元年(1864年)12月、長府の功山寺でわずかな同志とともに挙兵します。この決起は、長州藩の政治方針を大きく変え、やがて幕府を倒す動きへとつながっていきました。

目次

1.功山寺挙兵の背景にあった長州藩の危機

高杉晋作が挙兵する直前、長州藩は存亡の危機に立たされていました。

1864年7月、長州藩は京都で起きた禁門の変で薩摩藩・会津藩などに敗北します。朝廷に対して敵対したとみなされ、幕府からも追討の対象となりました。

さらに同年8月には、イギリス・フランス・オランダ・アメリカの四国連合艦隊が下関を砲撃します。長州藩は近代的な軍艦と兵器を持つ外国勢力に敗れ、攘夷を武力で実現することの難しさを思い知らされました。

こうした状況のなか、幕府は長州藩に対する第一次長州征討を実施します。長州藩は幕府との全面戦争を避けるため、禁門の変の責任を取る形で三人の家老を切腹させるなど、恭順の姿勢を示しました。

その結果、藩内では幕府に従って危機を乗り切ろうとする勢力が力を持つようになります。

2.俗論派と正義派の対立

当時の長州藩では、政治方針をめぐって大きく二つの勢力が対立していました。

俗論派とは何か

俗論派は、幕府との対立を避け、恭順することで長州藩の存続を図ろうとした勢力です。

禁門の変で敗北し、外国勢力との戦いにも苦しんだ長州藩にとって、幕府との全面戦争は大きな危険を伴うものでした。藩の取り潰しを避けるため、まずは幕府の要求を受け入れるべきだという考え方には、現実的な側面もありました。

正義派とは何か

一方の正義派は、幕府への過度な恭順に反対し、長州藩の自主性や尊王攘夷の立場を守ろうとする勢力です。

高杉晋作や、奇兵隊などの諸隊に参加した志士たちが、この勢力と結びついていきました。

ただし、正義派の全員が最初から幕府との全面戦争を望んでいたわけではありません。藩の存続を考えれば、幕府に対して慎重に対応すべきだという意見もありました。

問題は、俗論派が藩政の主導権を握り、正義派の重臣たちを投獄するなど、反対勢力を抑え込んでいったことです。

高杉は、このままでは長州藩が幕府の意向に従うだけの存在になってしまうと危機感を強めました。

3.高杉晋作はなぜ挙兵を決意したのか?

高杉晋作が挙兵した最大の理由は、俗論派による藩政を打倒し、長州藩の政治方針を立て直すためでした。

高杉は、藩が幕府に恭順することそのものだけでなく、藩内の反対勢力を排除し、幕府の要求を受け入れることを優先する政治に強い危機感を抱いていました。

長州藩には、奇兵隊をはじめとする軍事組織が存在していました。高杉は、身分にとらわれず志のある者を集めたこうした組織こそ、藩の将来を切り開く力になると考えていたのです。

しかし、俗論派が主導する藩政府のもとでは、奇兵隊などの諸隊も自由に行動できなくなる可能性がありました。

高杉は一時、九州へ逃れていましたが、長州藩の状況を変えるためには、自ら行動を起こすしかないと判断します。

こうして高杉は、藩政府に対する武力決起を決意しました。

4.功山寺挙兵とは何だったのか?わずか80人ほどでの決起

元治元年12月15日(西暦1865年1月12日)、高杉晋作は長府の功山寺で挙兵します。

功山寺には、八月十八日の政変で京都を追われた公家たちのうち、三条実美ら五卿が滞在していました。高杉は五卿に挙兵を報告し、自らの行動が単なる私的な反乱ではなく、長州藩の政治を正すための決起であることを示そうとしました。

このとき高杉に従ったのは、伊藤俊輔(後の伊藤博文)が率いる力士隊や、石川小五郎の遊撃隊など、約80人とされています。

高杉が創設した奇兵隊をはじめ、多くの諸隊は当初、決起に参加しませんでした。藩主に弓を引くことへの抵抗感や、挙兵が成功するかどうかへの不安があったためです。

つまり、功山寺挙兵は最初から長州藩全体を巻き込んだ大規模な反乱だったわけではありません。ごく少数の同志による、成功する保証のない決死の行動だったのです。

5.高杉晋作は下関の藩政府拠点を襲撃する

功山寺で決起した高杉らは、翌16日に下関の新地会所を襲撃します。ここで武器や弾薬を確保し、藩政府に対抗するための軍事力を整えようとしました。

さらに高杉らは、三田尻の海軍局を襲撃して軍艦を確保するなど、活動の範囲を広げていきます。

一方、高杉は自分たちの行動の正当性を藩内に訴える必要も感じていました。藩政府に反旗を翻す以上、単なる反乱とみなされれば、ほかの諸隊や藩士たちの協力を得ることは難しくなります。

そこで掲げられたのが、俗論派の政治を批判し、藩の正義を回復することを訴える檄文でした。山口県立山口図書館には、このときの「討奸檄」などに関する資料が紹介されています。

高杉らの決起は、少しずつ長州藩内の反俗論派を結集させる動きへと変わっていきました。

6.大田・絵堂の戦いで正義派が勝利する

高杉の挙兵に対し、藩政府は鎮圧軍を派遣します。こうして長州藩では、俗論派の政府軍と正義派を中心とする諸隊との間で、内戦が始まりました。

この一連の戦いは「元治の内訌」と呼ばれます。幕府との戦争ではなく、長州藩内部で政治の主導権を争った戦いでした。

戦局を決定づけたのが、慶応元年(1865年)1月に美祢郡の大田・絵堂周辺で行われた戦闘です。

諸隊は絵堂への奇襲などを仕掛け、藩政府軍と各地で激しい戦闘を繰り広げました。約10日間にわたる戦いの末、諸隊側が勝利し、政府軍を退けます。

この勝利によって、俗論派の政治的な影響力は大きく後退しました。高杉の挙兵は、単なる少数者の反乱に終わらず、長州藩の政治を転換させる結果につながったのです。

7.功山寺挙兵によって長州藩は倒幕へ動き出す

大田・絵堂の戦いの後、長州藩では藩政の人事が一新され、藩主・毛利敬親のもとで政治方針が改められました。

長州藩は、表向きには幕府に対して恭順の姿勢を示しながらも、軍事力を強化して自らを守る「武備恭順」の方向へ進んでいきます。

この方針転換を支えた重要人物の一人が、大村益次郎です。大村は西洋式の軍事知識を生かして長州藩の軍制改革を進め、諸隊の近代化や兵器の整備に力を注ぎました。

また、奇兵隊をはじめとする諸隊は、武士だけでなく農民や町人なども参加できる組織でした。従来の身分制度にとらわれない軍事力を持っていたことは、長州藩の大きな強みとなります。

こうした改革によって、長州藩は幕府の再征に備える体制を整えていきました。

8.功山寺挙兵が幕末の歴史に与えた影響

功山寺挙兵の歴史的な意義は、長州藩が幕府に従う方針から、独自の軍事力を背景に幕府と対抗する方針へ転換するきっかけをつくったことにあります。

もし高杉の決起が失敗していれば、俗論派の主導権が維持され、長州藩の軍事改革や倒幕運動の展開は大きく変わっていたかもしれません。

その後、長州藩は薩摩藩との関係を改善し、慶応2年(1866年)には薩長同盟が成立します。同年に始まった第二次長州征討では、長州藩が幕府軍を各地で破りました。

そして、薩摩・長州を中心とする倒幕勢力は、最終的に江戸幕府を終わらせる大きな原動力となっていきます。

功山寺挙兵は、それ自体が幕府を倒した戦いではありません。しかし、長州藩が再び幕府と戦うための政治的・軍事的な基盤を整えるうえで、極めて重要な転換点だったのです。

まとめ:高杉晋作の決起が長州藩の運命を変えた

高杉晋作が功山寺で挙兵したのは、第一次長州征討後に俗論派が藩政を掌握し、幕府への恭順を進めていたことに危機感を抱いたためでした。

  • 禁門の変と下関砲撃で、長州藩は軍事的・政治的に追い詰められた。
  • 第一次長州征討後、幕府への恭順を重視する俗論派が藩政を掌握した。
  • 高杉晋作は元治元年12月15日、功山寺で約80人の同志と挙兵した。
  • 大田・絵堂の戦いで正義派を中心とする諸隊が勝利した。
  • 長州藩は軍制改革を進め、第二次長州征討や倒幕運動に備えるようになった。

功山寺挙兵は、少数の同志による決起から始まり、長州藩全体の方針を変える結果を生みました。高杉晋作の決断は、幕末の勢力図を変え、明治維新へとつながる歴史の大きな転換点となったのです。

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