105人事件はなぜ起きたのか?日本が韓国の独立運動家を弾圧した事件の真相を解説
1911年、日本による韓国併合から間もない時期に、多数の韓国人が日本の警察によって逮捕される事件が起きました。
「105人事件」です。
日本側は、朝鮮総督の寺内正毅を暗殺する計画があったとして、独立運動家やキリスト教関係者を次々と逮捕しました。逮捕者は600人以上にのぼり、最終的に122人が起訴されました。
第一審では105人に有罪判決が下されましたが、上級審では99人が無罪となります。事件の取り調べでは拷問による自白の強要も行われており、暗殺計画は日本側が独立運動を弾圧するために捏造したものとされています。
なぜ日本は、これほど大規模な逮捕を行ったのでしょうか。
今回は、105人事件が起きた背景から、安岳事件との関係、寺内総督暗殺計画の真相、裁判の経過、そして韓国の独立運動に与えた影響までを解説します。
1.105人事件とは何だったのか?
105人事件とは、1911年から1912年にかけて日本が韓国の独立運動家やキリスト教関係者を大量に逮捕し、寺内正毅総督の暗殺計画に関与したとして処罰した事件です。
事件当時は「寺内総督謀殺未遂事件」などと呼ばれ、韓国では「新民会事件」とも呼ばれています。
現在の「105人事件」という名称は、第一審で105人に有罪判決が下されたことに由来します。逮捕された人が最初から105人だったわけではありません。
105人事件の基本情報
- 発生時期:1911年~1912年
- 事件の舞台:日本統治下の朝鮮
- 日本側の主張:寺内正毅総督の暗殺計画
- 逮捕者:600人以上(資料によっては700人以上)
- 起訴された人数:122人
- 第一審の有罪判決:105人
- 第二審で無罪となった人数:99人
事件の中心となったのは、安昌浩らが結成した秘密結社・新民会の関係者でした。
ただし、逮捕者や被告人の全員が新民会の会員だったわけではありません。キリスト教関係者や地域の教育・社会活動に携わっていた人々も巻き込まれました。
2.105人事件はなぜ起きたのか?
理由① 韓国併合後、日本が独立運動を警戒していたから
105人事件の背景には、1910年の韓国併合があります。
1910年8月、日本は韓国併合条約を締結し、大韓帝国を植民地支配下に置きました。朝鮮総督府が設置され、寺内正毅が初代総督に就任します。
日本は韓国国内の統治体制を整える一方、独立を目指す人々や民族運動を厳しく取り締まりました。
特に警戒されたのが、学校や教会、新聞、秘密結社などを通じて広がっていた民族運動です。
新民会は教育や産業振興を通じて国民の力を高め、将来的な独立を目指していました。日本側にとって、こうした活動は植民地統治を不安定にする可能性があるものと見られていたのです。
理由② 新民会の組織と独立運動のネットワークを解体しようとしたから
新民会は1907年ごろに結成された秘密結社で、安昌浩、梁起鐸、李昇薫らが活動の中心となっていました。
学校の設立や出版活動、産業振興を進めるだけでなく、満州など海外に独立運動の拠点をつくる構想も持っていました。
日本側は、こうした活動を通じて独立運動の人脈が広がることを警戒していました。
105人事件では、新民会の幹部や関係者だけでなく、独立運動に協力する可能性があると見られた人々も逮捕されました。
つまり、寺内総督の暗殺計画を取り締まるという名目の背後には、韓国の民族運動を弱体化させる狙いがあったと考えられています。
3.105人事件のきっかけとなった安岳事件とは?
105人事件を理解するうえで重要なのが、先行して起きた「安岳事件」です。
安岳事件は、1910年末に発覚した安明根による軍資金調達活動をきっかけとして、黄海道の民族運動家らが逮捕された事件です。
安明根はなぜ逮捕されたのか?
安明根は、独立運動家・安重根の親族にあたる人物です。
彼は満州に独立運動の拠点をつくるための資金を集めていましたが、1910年12月に平壌駅で日本の警察に逮捕されました。
日本側は安明根の活動を調べるなかで、彼と関係があるとされた黄海道の民族運動家やキリスト教関係者にも捜査を広げていきました。
その結果、金九や金鴻亮らを含む多くの人々が検挙されます。
安岳事件から105人事件へ
日本側は安明根の活動を、地域の民族運動や新民会の活動と結びつけて捜査を拡大しました。
安岳事件によって独立運動家の人脈や活動状況を把握した日本側は、さらに新民会の中央幹部や地方の関係者へと取り締まりを広げていきます。
こうして、寺内総督暗殺計画という容疑を掲げた大規模な逮捕へとつながっていきました。
安岳事件と105人事件は別々の事件ですが、日本による独立運動弾圧の流れのなかで密接につながっていました。
4.寺内総督暗殺計画とは何だったのか?
105人事件で日本側が主張したのは、朝鮮総督の寺内正毅を暗殺する計画が存在したというものでした。
鴨緑江鉄橋の竣工式が計画の舞台とされた
1910年12月、朝鮮と満州を結ぶ鴨緑江鉄橋の完成に関係する式典が行われました。
日本側の主張によれば、寺内総督が式典に向かう際、あるいは式典を終えて帰京する際に、独立運動家たちが総督らを暗殺しようとしていたというのです。
この計画には新民会の幹部やキリスト教関係者が関わっていたとされました。
暗殺計画は実在したのか?
しかし、この暗殺計画を裏付ける信頼できる証拠は確認されず、取り調べで得られた自白も拷問によって強制されたものとして上級審で否定されました。
現在の歴史研究では、寺内総督暗殺計画は日本側が独立運動家を弾圧するために捏造したものと理解されています。
ただし、事件の捜査で語られた新民会の組織像や活動計画については、後年の研究で再検討も進められています。第一審の供述や判決に記された内容を、そのまま新民会の実態とみなすことには注意が必要です。
重要なのは、暗殺計画が裁判で十分に立証されず、多数の人々が虚偽の自白を強いられたという点です。
5.日本はどのように独立運動家を弾圧したのか?
600人以上が逮捕された
日本側は1911年9月ごろから、尹致昊、李昇薫、梁起鐸、安泰国、柳東説らを含む独立運動家を次々と逮捕しました。
逮捕者は全国で600人以上にのぼり、研究によっては700人以上とされています。
逮捕された人々には、新民会の幹部や会員だけでなく、学校関係者、キリスト教徒、地域の有力者なども含まれていました。
拷問によって虚偽の自白が強要された
取り調べでは、警察による厳しい拷問が行われました。
逮捕された人々は、寺内総督の暗殺計画や秘密結社の活動について自白するよう迫られました。
その結果、実際には関与していない人まで、暗殺計画に参加したかのような供述をさせられたとされています。
拷問によって負傷した人や、命を落とした人もいました。韓国民族文化大百科事典は、取り調べ中の拷問によって2人が死亡したと記しています。
こうした取り調べは、単に暗殺計画の真相を調べるためというよりも、独立運動家のネットワークを把握し、運動そのものを弱体化させるための弾圧だったと評価されています。
6.105人事件の裁判で何が起きたのか?
大量逮捕の後、事件は裁判に持ち込まれました。
1912年、122人が起訴される
逮捕された人々のうち、122人が起訴されました。
裁判は1912年6月28日に京城地方法院で始まり、被告人たちは寺内総督暗殺計画への関与を問われました。
しかし、被告人側は取り調べでの自白が拷問によって強制されたものであると主張し、事件そのものが捏造されたものだと訴えました。
1912年9月、105人に有罪判決
1912年9月28日、第一審では105人に懲役5年から10年の有罪判決が下されました。
しかし、被告人側は判決を不服として全員が上級審に訴えました。
裁判では、拷問による自白の信頼性や、暗殺計画を裏付ける証拠の有無が大きな争点となりました。
1913年、99人が無罪となる
1913年7月15日、第二審にあたる大邱覆審法院で、105人のうち99人が無罪となりました。
一方、尹致昊、梁起鐸、安泰国、李昇薫、林蚩正、玉観彬の6人には懲役5年から6年の判決が残りました。
この結果は、第一審で有罪の根拠とされた供述や証拠に大きな問題があったことを示しています。
さらに、残った6人も1915年2月、大正天皇の即位大典に伴う特赦によって釈放されました。
裁判の経過を整理
| 時期 | 出来事 |
|---|---|
| 1910年12月 | 安明根が逮捕される |
| 1911年 | 安岳事件に続き、独立運動家の大量逮捕が進む |
| 1912年6月 | 京城地方法院で裁判が始まる |
| 1912年9月28日 | 105人に有罪判決 |
| 1913年7月15日 | 99人が無罪、6人に有罪判決 |
| 1915年2月 | 残る6人も特赦で釈放 |
なお、資料によって逮捕者数や裁判の段階の表現には違いがあります。600人以上という数字は逮捕者の規模を示し、105人という数字は第一審で有罪判決を受けた人数を示しています。
7.105人事件によって新民会はどうなったのか?
105人事件は、新民会の活動に深刻な打撃を与えました。
新民会の幹部や関係者が拘束された
新民会の中心人物だった梁起鐸、李昇薫、安泰国らが逮捕され、組織の活動を支えていた人々も取り締まりの対象となりました。
秘密結社として活動していた新民会は、幹部や会員のネットワークを維持することが難しくなり、国内での組織的な活動は大きく後退しました。
ただし、逮捕された人々全員が新民会の会員だったわけではありません。また、新民会の活動がこの事件だけで完全に消滅したと単純化することもできません。
海外へ移る独立運動家が増えた
日本による弾圧を受けた独立運動家のなかには、満州や中国、ロシア沿海州、アメリカなど海外へ活動の拠点を移す人々もいました。
満州では、独立軍の育成や民族教育を進める動きが続きました。新民会が構想していた海外拠点づくりも、その後の独立運動のなかで引き継がれていきます。
1919年の三・一運動や大韓民国臨時政府の成立へと続く独立運動を考えるうえでも、105人事件は重要な出来事です。
8.105人事件は日本の植民地統治に何を示しているのか?
105人事件は、日本による韓国統治の初期に、独立運動をどのように抑え込もうとしたのかを示す象徴的な事件です。
日本側は寺内総督暗殺計画という重大な容疑を掲げましたが、裁判では多くの被告人が無罪となりました。
その過程では、拷問による自白の強要や、十分な証拠がないまま有罪判決を下す問題も明らかになりました。
また、事件は新民会の幹部だけでなく、キリスト教関係者や教育活動に携わる人々にも影響を及ぼしました。
日本にとって、学校や教会、地域の人脈を通じて広がる民族運動は、植民地支配を揺るがす可能性のある存在でした。105人事件は、そうした運動を広く取り締まるために利用された弾圧事件だったのです。
まとめ:105人事件は韓国の独立運動を弱体化させるための大規模な弾圧だった
105人事件は、1911年から1912年にかけて日本が韓国の独立運動家らを大量に逮捕し、寺内総督暗殺計画への関与を問うた事件です。
- 1910年の韓国併合後、日本は独立運動への取り締まりを強化した。
- 安明根の逮捕をきっかけとした安岳事件から、弾圧が拡大した。
- 寺内総督暗殺計画を口実に600人以上が逮捕された。
- 取り調べでは拷問による虚偽の自白が強要された。
- 1912年の第一審では105人に有罪判決が下された。
- 1913年の第二審では99人が無罪となった。
- 新民会の国内活動は大きな打撃を受けたが、独立運動は海外へと引き継がれた。
105人事件は、単なる暗殺計画の捜査ではありませんでした。日本による植民地統治に抵抗する人々を広く取り締まり、独立運動の基盤を弱めようとした政治的な弾圧事件でした。
新民会の活動や105人事件を知ることで、韓国併合後の日本の統治政策と、それに抵抗した人々の動きをより深く理解できます。
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