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李奉昌はなぜ昭和天皇を狙ったのか?桜田門事件と韓国独立運動への影響を解説

李奉昌はなぜ昭和天皇を狙ったのか?桜田門事件と韓国独立運動への影響を解説

1932年1月8日、東京の桜田門付近で、昭和天皇の行列に向かって爆弾が投げられました。

爆弾を投げたのは、朝鮮人独立運動家の李奉昌(イ・ボンチャン)です。

この事件は「桜田門事件」と呼ばれ、日本の政治や警察に大きな衝撃を与えました。

李奉昌は、韓国の独立を目指す大韓民国臨時政府の関係者であり、金九が組織した韓人愛国団の最初の団員でした。

しかし、彼は生まれたときから独立運動家だったわけではありません。若い頃は日本人の店や鉄道で働き、日本で暮らした経験もありました。そのなかで朝鮮人への差別を経験し、次第に日本の植民地支配に疑問を抱くようになります。

なぜ李奉昌は昭和天皇を狙ったのでしょうか。そして、失敗に終わった桜田門事件は、韓国独立運動にどのような影響を与えたのでしょうか。

今回は、李奉昌の生涯から金九との出会い、事件の経緯、逮捕と処刑、その後の歴史的影響までを解説します。

目次

1.李奉昌とはどのような人物だったのか?

李奉昌は、1901年8月10日に朝鮮の漢城(現在のソウル)で生まれた独立運動家です。

幼少期には学校に通い、成長すると生活のために働き始めました。日本人経営の菓子店や薬局、朝鮮総督府の鉄道関係の職場などで仕事を経験しています。

その後、日本へ渡って大阪などで働きましたが、朝鮮人に対する差別を経験し、次第に植民地支配への反発を強めていきました。

1930年に中国・上海へ渡り、金九と出会います。そして韓人愛国団に参加し、1932年1月8日に東京で昭和天皇を狙った爆弾投擲事件を起こしました。

李奉昌の基本情報

  • 名前:李奉昌(イ・ボンチャン)
  • 生年:1901年
  • 没年:1932年
  • 出身地:漢城(現在のソウル)
  • 所属:韓人愛国団
  • 主な活動:1932年1月8日の桜田門事件
  • 処刑:1932年10月10日

李奉昌の特徴は、もともと政治的な活動に積極的だったわけではなく、働くなかで差別を経験し、独立運動へと進んでいったことです。

2.李奉昌はなぜ日本で働くようになったのか?

ソウルで働きながら生活する

李奉昌は、朝鮮の漢城で生まれました。

幼い頃は書堂で学び、その後、天道教系の文昌普通学校に入学して教育を受けました。

しかし、家庭の経済状況が悪化したため、上級学校への進学を断念し、働き始めます。

日本人が経営する菓子店や薬局で働いた後、1920年には龍山駅の鉄道関係の仕事に就きました。

鉄道職場で朝鮮人差別を経験する

李奉昌は仕事で経験を積み、鉄道関係の職場で昇進もしました。

しかし、同じように働いていても、朝鮮人であることを理由に日本人とは待遇が異なる場面がありました。

昇進や給与、賞与などで差別されていると感じた李奉昌は、次第に不満を募らせていきます。

1924年には鉄道の仕事を辞め、その後は安定した職を得られない時期を過ごしました。

当初の李奉昌は、独立運動に積極的に参加していたわけではありません。生活を安定させることが大きな関心事だったのです。

3.李奉昌はなぜ日本で独立への思いを強めたのか?

1925年に大阪へ渡る

1925年11月、李奉昌は日本へ渡り、大阪で働き始めました。

日本に行けば、朝鮮人という理由で差別されずに暮らせるのではないかと期待していたとされています。

しかし、実際には日本でも朝鮮人への差別を経験しました。

ガス会社などで働きましたが、職場での待遇や雇用の不安定さに悩まされ、仕事を転々とすることになります。

昭和天皇の即位式をめぐる経験

李奉昌の考え方が変わるきっかけの一つとなったのが、1928年の昭和天皇の即位式をめぐる出来事です。

李奉昌は京都で行われた即位式を見物しようとしましたが、警察の取り締まりに遭い、拘束されました。

国漢文混用の手紙を持っていたことなどを理由に留置され、日本人の拘束者とは異なる扱いを受けたとされています。

この経験を通じて、いくら日本人のように振る舞おうとしても、朝鮮人である限り対等に扱われない現実を強く意識するようになりました。

李奉昌は、こうした経験を重ねるなかで、朝鮮の独立に関心を持つようになっていきます。

4.李奉昌はなぜ上海へ渡ったのか?

日本での生活に限界を感じた李奉昌は、朝鮮人が集まり、独立運動にも関われる場所を探すようになります。

1930年12月、中国・上海へ渡る

1930年12月、李奉昌は日本を離れ、中国の上海へ渡りました。

当時の上海には、大韓民国臨時政府をはじめ、多くの朝鮮人独立運動家が活動していました。

上海は、日本の植民地支配が直接及ばない海外の活動拠点であり、朝鮮の独立を目指す人々が集まる重要な都市でした。

李奉昌は当初、上海で仕事を探していました。中国語ができず、知り合いも少なかったため、生活は簡単ではありませんでした。

仕事を探すために大韓民国臨時政府を訪れたことが、彼の人生を大きく変えることになります。

金九との出会い

李奉昌が臨時政府を訪れた当初、関係者たちは彼を警戒しました。

日本語を交えて話し、日本人のような服装をしていたため、日本側の密偵ではないかと疑われたのです。

しかし、臨時政府の中心人物だった金九は、李奉昌に関心を持ち、何度か話をする機会を設けました。

金九は、李奉昌が日本で長く暮らし、東京の地理や事情に詳しいことを知ります。

さらに、李奉昌が昭和天皇の即位式を見物した経験などを語るなかで、日本の支配に対する反発と行動への意欲を持っていることを理解していきました。

こうして李奉昌は、金九のもとで独立運動に参加することになります。

5.韓人愛国団とは何だったのか?

李奉昌が参加した韓人愛国団は、金九が中心となって組織した独立運動団体です。

当時、大韓民国臨時政府は資金不足や内部対立、日本側の弾圧などによって活動が停滞していました。

金九は、限られた資金と人員でも大きな政治的効果を生み出す方法として、日本の政治・軍事関係者を標的とする義挙を計画しました。

李奉昌は韓人愛国団の最初の団員となる

金九は、李奉昌を日本での行動を担う人物として選びました。

1931年12月13日、李奉昌は韓人愛国団に正式に参加し、祖国の独立と自由を取り戻すために活動することを誓いました。

このとき、李奉昌は太極旗を背景に、宣誓文を胸に掲げ、両手に爆弾を持った写真を撮影しています。

この写真は、現在も韓国独立運動を象徴する記録の一つとして知られています。

なぜ昭和天皇を標的にしたのか?

金九と李奉昌が計画したのは、昭和天皇の暗殺を狙う行動でした。

当時の日本では、天皇は国家の中心的な存在であり、軍や政府の権威を象徴していました。

そのため、天皇を標的とする行動は、日本の政治体制に大きな衝撃を与えると考えられました。

また、事件を通じて朝鮮の独立問題を国際社会に訴え、日本の植民地支配に抵抗する人々が存在することを示す狙いもありました。

李奉昌の行動は、個人的な復讐というより、独立運動の存在を世界に示すための政治的な義挙として計画されたのです。

6.1932年1月8日、桜田門事件はなぜ起きたのか?

東京で昭和天皇の行列を待つ

1932年1月8日、東京の代々木練兵場では陸軍の新年観兵式が行われました。

昭和天皇も式典に出席し、その後、皇居へ戻るために車列を組んで移動していました。

李奉昌は、この機会を狙って桜田門付近で待ち構えていました。

彼は2個の爆弾を用意し、昭和天皇の行列が通過するタイミングを見計らっていました。

天皇の行列に爆弾を投げる

午前11時ごろ、昭和天皇の行列が桜田門付近に差しかかりました。

李奉昌は爆弾を投げましたが、標的を取り違え、昭和天皇が乗る馬車ではなく、宮内大臣の馬車に命中させました。

爆発によって馬車の一部が損傷し、近衛兵の馬も被害を受けました。

李奉昌はもう一つの爆弾も投げましたが、こちらは爆発しませんでした。

昭和天皇に被害はなく、暗殺計画は失敗に終わりました。

李奉昌はその場で逮捕される

爆発直後、現場は騒然となりました。

李奉昌はその場で取り押さえられ、逮捕されました。

事件は日本国内だけでなく、海外にも報道されました。

天皇の行列が狙われたことは、日本の警備体制や政治のあり方に大きな衝撃を与えました。

7.桜田門事件は日本の政治にどのような影響を与えたのか?

桜田門事件は、昭和天皇に被害が及ばなかったものの、日本の政治や警察に大きな影響を与えました。

警備体制への批判が高まる

天皇の行列が通過する場所で爆弾が投げられたことから、警備体制への批判が強まりました。

事件後、警視庁の幹部などが警備上の責任を問われ、処分を受けました。

当時の内閣も事件の責任をめぐって大きく揺れました。ただし、内閣の総辞職は事件だけが原因ではなく、当時の政治情勢や政党内閣をめぐる問題も背景にありました。

中国でも大きく報道される

桜田門事件は、中国の新聞でも報道されました。

日本の侵略を受けていた中国では、李奉昌の行動に注目する報道もありました。

中国国民党系の新聞は、事件を「韓国人李奉昌、天皇を狙撃するも不幸にして命中せず」という趣旨の見出しで伝えたとされています。

この報道に日本側は強く反発し、新聞社や国民党関係の施設への襲撃なども発生しました。

事件は、朝鮮独立運動の問題にとどまらず、日本と中国の関係にも緊張をもたらす出来事となりました。

8.李奉昌はなぜ処刑されたのか?

逮捕された李奉昌は、日本の司法当局によって裁判にかけられました。

1932年9月、死刑判決を受ける

李奉昌の裁判は、1932年9月に東京で行われました。

天皇を標的とした事件であることから、裁判は非公開で進められました。

1932年9月30日、李奉昌には死刑判決が言い渡されました。

彼は昭和天皇を狙った行動について責任を問われ、極めて重い処罰を受けることになりました。

1932年10月10日、市谷刑務所で処刑される

1932年10月10日、李奉昌は東京の市谷刑務所で処刑されました。

享年31歳でした。

彼の計画は失敗に終わりましたが、その行動は朝鮮の独立運動を国内外に示す出来事として記憶されることになります。

1962年には、大韓民国政府から建国勲章大統領章が追叙されました。

9.桜田門事件はなぜ韓国独立運動に影響を与えたのか?

桜田門事件は、昭和天皇の暗殺という目的を達成できませんでした。

しかし、韓国独立運動にとっては大きな意味を持つ事件となりました。

停滞していた独立運動に注目を集める

1930年代初頭の大韓民国臨時政府は、資金不足や内部対立、日本側の弾圧などによって厳しい状況にありました。

そのなかで桜田門事件は、日本の首都で独立運動家が大きな行動を起こしたことを世界に示しました。

事件は海外の新聞でも取り上げられ、朝鮮人の独立への意志を国際社会に知らせる機会となりました。

金九と韓人愛国団の活動が知られる

事件後、日本側は上海にいる金九らの関係者を追跡し、韓人愛国団の活動について調査を進めました。

金九は事件への関与を明らかにし、独立運動の立場から行動の意味を説明しました。

その後、同じ韓人愛国団の尹奉吉が、1932年4月29日に上海の虹口公園で義挙を実行します。

李奉昌の桜田門事件と尹奉吉の虹口公園義挙は、金九が進めた独立運動を象徴する二つの出来事となりました。

尹奉吉の義挙へとつながる

尹奉吉の虹口公園義挙では、日本軍の幹部らが死傷しました。

この事件は中国国内でも大きな反響を呼び、蒋介石ら中国側の指導者が韓国独立運動に関心を寄せるきっかけとなりました。

桜田門事件と虹口公園義挙は、それぞれ異なる場所で実行されましたが、どちらも韓人愛国団の活動として、臨時政府の存在を国際社会に印象づける役割を果たしました。

10.李奉昌は現在どのように評価されているのか?

李奉昌は、現在の韓国では日本の植民地支配に抵抗した独立運動家として評価されています。

韓国では、桜田門事件は「桜田門義挙」とも呼ばれ、独立運動の歴史を象徴する出来事の一つとして扱われています。

独立運動の象徴として記憶される

李奉昌の生涯は、植民地支配下で働く一人の青年が、差別や社会の現実を経験し、独立運動に身を投じていった過程を示しています。

彼は日本で暮らし、日本語を使い、日本社会のなかで働いていました。しかし、朝鮮人としての差別を経験するなかで、自分が置かれた立場を強く意識するようになります。

そして上海で金九と出会い、独立運動に参加する道を選びました。

事件の失敗と歴史的な意味は分けて考える

桜田門事件では昭和天皇への攻撃は成功せず、李奉昌は逮捕されて処刑されました。

軍事的・直接的な目的を達成できなかったことは事実です。

一方で、事件が日本の警備体制や政治に衝撃を与え、朝鮮独立運動の存在を海外に知らせたことも重要です。

歴史を考える際には、事件の結果だけでなく、当時の植民地支配や独立運動の状況、国際社会への影響も含めて理解する必要があります。

まとめ:李奉昌はなぜ昭和天皇を狙ったのか?

李奉昌が昭和天皇を狙ったのは、日本の植民地支配に抵抗し、朝鮮独立への意思を国内外に示すためでした。

  • 1901年、漢城(現在のソウル)に生まれた。
  • 若い頃は日本人経営の店や鉄道関係の職場で働いた。
  • 朝鮮人への差別を経験し、次第に独立への関心を強めた。
  • 1925年に日本へ渡り、大阪などで働いた。
  • 1930年12月に上海へ渡り、金九と出会った。
  • 1931年12月13日、韓人愛国団に参加した。
  • 1932年1月8日、東京の桜田門付近で昭和天皇の行列に爆弾を投げた。
  • 爆弾は宮内大臣の馬車に命中し、昭和天皇に被害はなかった。
  • 1932年9月30日に死刑判決を受け、10月10日に処刑された。
  • 事件は海外でも報道され、韓国独立運動への注目を高めた。

李奉昌は、最初から独立運動に参加していた人物ではありませんでした。

日本で働き、朝鮮人への差別を経験するなかで、植民地支配の現実を強く意識するようになりました。そして上海で金九と出会い、韓人愛国団の最初の団員として桜田門事件を実行します。

事件そのものは失敗に終わりましたが、朝鮮の独立を求める人々の存在を世界に示し、同年4月の尹奉吉による虹口公園義挙にもつながっていきました。

李奉昌の生涯を知ることは、1930年代の韓国独立運動がどのように展開し、海外で活動する独立運動家たちが何を目指していたのかを理解するうえで重要です。

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