こんにちは。
今回はこんなテーマでやっていきます。
僕も「独り立ちしたくないな」と思うことがあります。一人暮らしとか面倒ですもんね。でもいつかは独り立ちしないといけません。独り立ちしないと外には恐ろしい世界が待っているからです。
今回はそんなお話です。それではどうぞ。
壬午軍乱・庚申事変とは。
どちらも明治時代に朝鮮半島で起こった政治的クーデターです。壬午軍乱、庚申事変の順番で起こっていきます。
読み方
- 壬午軍乱=「じんごぐんらん」
- 庚申事変=「こうしんじへん」
とそれぞれ読みます。
きっかけは開国
開国させたのは日本です。日朝修好条規という不平等条約を結び、朝鮮を開国させました。
そして、開国と同時に、朝鮮内部での改革が起こります。そんな中、朝鮮内に2つの論が浮かび上がってきます。それがこの2つです。
「親日派vs親清派」
要は「日本につくか、清につくか」といった論争です。独立した朝鮮としてやっていく気はないそうです。
日本が開国したときには技術や文化を盗めることは「どこからでもなんでも盗もう」という考えでやっていましたが、朝鮮は長年中国と行動を共にしてきた国なのでそういった感覚が分からなかったんではないかなと個人的には思っています。
しかしこのことが朝鮮国内で大きな争いを生むことになります。それが
- 壬午軍乱(じんごぐんらん)
- 庚申事変(こうしんじへん)
の2つです。ここからはそれぞれ説明していきます。
壬午軍乱(1882年)
親日派:閔妃(びんひ)vs親清派:大院君(たいいんくん)の戦いとなりました。ちなみに家族構成としては大院君の息子が高宗、高宗の后が閔妃となっており、血縁的に近い2人が争いを起こしたと言えます。
大院君が起こした親日派打倒の反乱となりましたが反乱は失敗に終わります。
そしてこの時、閔妃が親日派から親清派へ変わっていきます。
なお、この事件で日本側は被害を受けたので朝鮮と済物浦(さいもっぽ)条約を結び、賠償金などを獲得しました。
甲申事変(1884)
親日派:金玉均(きんぎょくきん)(独立党)vs親清派:閔妃(事大党)の戦いとなりました。今回はそれぞれ党を作っています。金玉均が日本から援助を受け、クーデターする形となりましたがまたも失敗。金玉均は日本に亡命。
親日・親中と分かれて戦っているので当然両国もクーデターに参加していたのですが、日中ともにこれ以上の戦いは避けたかったので、日中間で条約を結びました。
名前は天津条約といい、両国は朝鮮から撤兵し、次に兵を出すときはもう一方に連絡してからにしなければならない(事前通告制)ということを決めました。
こうして日中の関係は、表面上はよくなったが、お互い朝鮮の利権を手に入れることを考えていたという状態でした。
脱亜論(1885年)
内容は「アジアに固執せず、西欧と話し合おう」という感じですかね。
覚え方
壬午軍乱・庚申事変と人物の結び付け方についての覚え方です。
- 壬午軍乱:お家騒動(親族同士の争い)
- 甲申事変:金玉均。
という感じで覚えていました。金玉均は名前のインパクトが強すぎて甲申事変と強烈に結び付けていました。
最後に 他の国とは?
明治時代初期には他の国とも交易を行っていきますがどれも重要なんです。
みんな苦戦する文化史の勉強法についてはこちら。
そして日本史の文化全体を幅広くまとめたおトクな記事はこちら。
今回は以上です。ご覧いただきありがとうございました。
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