大韓民国臨時政府はなぜ成立したのか?上海で始まった韓国独立運動の拠点を解説
1919年4月、日本の植民地支配からの独立を目指す朝鮮の人々が、中国・上海に一つの政府を設立しました。
「大韓民国臨時政府」です。
1910年の韓国併合によって大韓帝国が消滅した後、朝鮮の独立運動家たちは海外に活動拠点を求めていました。特に1919年3月1日に始まった三・一運動は、独立国家を自分たちの手でつくろうという動きを大きく後押ししました。
臨時政府は上海を拠点に、外交活動や国内との連絡網の整備、独立軍の育成などを進めます。しかし、指導者間の対立や資金不足、日本による追跡など、さまざまな困難にも直面しました。
それでも組織を維持し、1932年には尹奉吉の義挙によって中国側からの支援を得るきっかけをつくります。1940年には韓国光復軍を創設し、第二次世界大戦中も独立を目指して活動を続けました。
今回は、大韓民国臨時政府が成立した理由から、上海での活動、内部対立、金九や尹奉吉の活躍、韓国光復軍の結成、そして1945年の解放までを解説します。
1.大韓民国臨時政府とは何だったのか?
大韓民国臨時政府とは、1919年4月に中国・上海で成立した、朝鮮の独立を目指す亡命政府です。
日本による植民地支配が続くなか、海外に政治的な拠点を設け、独立運動を組織的に進めることを目的としていました。
重要なのは、臨時政府が単なる独立運動団体ではなく、憲法にあたる臨時憲章を制定し、議会や行政機関を備えた政府組織として出発したことです。
大韓民国臨時政府の基本情報
- 成立:1919年4月11日
- 成立地:中国・上海
- 目的:日本の植民地支配からの独立と民主共和制国家の建設
- 主な人物:李承晩、安昌浩、金九、李東輝、金奎植ら
- 主な活動:外交、国内連絡網の整備、独立軍の育成、宣伝活動
- 主な拠点:上海、杭州、鎮江、長沙、広州、柳州、綦江、重慶など
- 活動期間:1919年から1945年まで
臨時政府は1945年の日本の敗戦まで約27年間にわたって活動を続けました。
なお、成立日は以前、4月13日とされていましたが、史料の再検討によって2019年から4月11日に改められています。
2.大韓民国臨時政府はなぜ成立したのか?
理由① 韓国併合によって独立国家を失ったから
大韓民国臨時政府が成立した根本的な背景には、1910年の韓国併合があります。
日本は1910年8月、韓国併合条約を締結し、大韓帝国を植民地支配下に置きました。
これによって朝鮮の人々は独立した政府を失い、日本の統治機構である朝鮮総督府の支配を受けることになります。
国内では言論や集会、政治活動が制限され、独立運動家への取り締まりも強まりました。
こうした状況のなかで、独立運動家たちは日本の支配が及びにくい海外に拠点を設け、独立を目指す政府をつくろうと考えるようになりました。
理由② 三・一運動によって独立への意思が明確になったから
1919年3月1日、朝鮮半島では日本の植民地支配に抗議する三・一運動が始まりました。
学生や宗教者、農民、市民など幅広い人々が参加し、朝鮮の独立を求める運動が全国に広がりました。
しかし、日本側は警察や軍隊を動員して運動を弾圧します。国内での大規模な政治活動は難しくなり、海外に独立運動の拠点を設ける必要性が高まりました。
また、三・一運動によって独立を求める人々の意思が国内外に示されたことで、その意思を代表する政治機関をつくろうという動きも強まりました。
大韓民国臨時政府は、三・一運動の独立精神を引き継ぐ組織として成立したのです。
理由③ 海外の独立運動を一つにまとめる必要があったから
三・一運動の後、朝鮮の独立運動家たちは国内外のさまざまな地域で臨時政府の設立を目指しました。
代表的なものが、次の3つです。
- 上海:大韓民国臨時政府
- ソウル:漢城政府
- ロシア沿海州:大韓国民議会
それぞれ独立国家の建設を目指していましたが、複数の政府が並立したままでは、国内外の独立運動を統一的に進めることが難しくなります。
そこで、各地の臨時政府を統合し、朝鮮の独立運動を代表する政治機関をつくることが重要な課題となりました。
3.大韓民国臨時政府はどのように成立したのか?
1919年4月、上海で臨時議政院が設置された
上海には、三・一運動以前から独立運動家たちが集まっていました。
1919年3月1日の独立運動が始まると、国内外からさらに多くの独立運動家が上海に集まり、フランス租界に独立臨時事務所を設置しました。
そして1919年4月10日、29人の代表者が集まり、臨時政府の議会にあたる「大韓民国臨時議政院」を設立します。
臨時議政院は国号を「大韓民国」と定め、政府組織や閣僚を選出しました。
翌4月11日には、臨時憲章を制定し、大韓民国臨時政府の成立を宣言しました。
民主共和制を掲げた新しい国家構想
臨時政府が特に重要視したのは、民主共和制を採用したことです。
大韓帝国は皇帝を中心とする君主制国家でしたが、大韓民国臨時政府は国民を国家の主体とする共和制を掲げました。
臨時憲章の第1条には「大韓民国は民主共和制とする」と定められています。
これは、朝鮮の独立を回復するだけでなく、独立後にどのような国家を建設するのかという構想を示したものでした。
後の大韓民国憲法にも、三・一運動と臨時政府の独立精神を継承する考え方が盛り込まれています。
4.各地の臨時政府はなぜ統合されたのか?
1919年には上海以外にも臨時政府が設立されました。しかし、独立運動を効果的に進めるためには、複数の政府を統合する必要がありました。
漢城政府と大韓国民議会
漢城政府は、国内の13道代表者らによって設立が進められ、1919年4月にソウルで政府の樹立が宣言されました。
一方、ロシア沿海州では、大韓国民議会が設立されました。こちらはロシアに暮らす朝鮮人社会を基盤とした独立運動組織でした。
それぞれに政治的な正統性や活動基盤がありましたが、指導者や組織の違いを乗り越えることが課題となっていました。
安昌浩らの調整によって統合が進んだ
統合を進めるうえで重要な役割を果たしたのが、新民会の中心人物でもあった安昌浩です。
安昌浩は1919年に上海へ渡り、各地の独立運動勢力をまとめるために調整を進めました。
その結果、漢城政府の正統性を認めつつ、上海を拠点とする統合政府を設ける方向で合意が形成されました。
1919年9月11日、臨時憲法が改正され、上海・漢城・大韓国民議会の統合を反映した大韓民国臨時政府が発足しました。
初代臨時大統領には李承晩が就任し、政府の組織も再編されました。
これによって、各地に分かれていた独立運動の政治的な中心を一つにまとめる体制が整えられたのです。
5.大韓民国臨時政府はどのような活動を行ったのか?
臨時政府は、外交・国内連絡網・軍事活動・宣伝活動など、複数の方法で独立を目指しました。
活動① 外交活動によって国際社会に独立を訴えた
臨時政府が重視した活動の一つが外交です。
1919年のパリ講和会議には、金奎植が代表として派遣され、朝鮮の独立を国際社会に訴えました。
また、アメリカでは李承晩らが外交活動を行い、日本の植民地支配の実態を説明して支援を求めました。
臨時政府は、1919年に『韓日関係史料集』を編纂し、日本による侵略や植民地支配の経緯を国際社会に知らせようとしました。
しかし、当時の列強は朝鮮の独立を正式に承認しませんでした。外交活動は重要な意味を持っていましたが、国際的な承認を得ることはできなかったのです。
活動② 国内との連絡網を整備した
上海に政府を設置しても、朝鮮国内との連絡が取れなければ、独立運動を進めることは困難です。
そこで臨時政府は、安昌浩らの主導によって「連通制」と「交通局」を整備しました。
連通制は、国内各地に秘密の行政・連絡組織を設ける仕組みです。交通局は上海と朝鮮国内を結ぶ連絡網として機能しました。
これらの組織は、臨時政府からの指示や情報を国内に伝えるだけでなく、独立運動の資金集めや宣伝活動にも利用されました。
しかし、日本の警察による捜査で関係者が次々と逮捕され、1922年末ごろには国内での活動が困難になっていきました。
活動③ 独立軍の育成を進めた
臨時政府は、外交や宣伝だけでなく、武力による独立回復も目指していました。
1919年末には軍事計画を策定し、1920年を「独立戦争元年」と位置づけました。
満州で活動する独立軍との連携を進め、軍事組織の整備や兵士の育成を目指しました。
しかし、国内連絡網の崩壊や資金不足などによって、当初の計画を十分に実行することはできませんでした。
活動④ 『独立新聞』で独立運動を広めた
臨時政府は、自らの活動や朝鮮独立の必要性を伝えるため、新聞の発行にも力を入れました。
代表的なものが『独立新聞』です。
新聞では、臨時政府の活動や独立運動の状況、国際情勢などが紹介されました。
また、中国語版も発行され、中国の人々に朝鮮独立の正当性を訴えました。
6.大韓民国臨時政府はなぜ内部対立に苦しんだのか?
臨時政府は成立後、外交や軍事活動を進めましたが、組織内部では指導方針をめぐる対立が深まっていきました。
李承晩と独立運動家たちの対立
初代臨時大統領となった李承晩は、外交を通じてアメリカなどの国際社会から支援を得ることを重視しました。
一方、独立運動家のなかには、外交だけでは独立を実現できないとして、武装闘争や国内での民族運動を重視する人々もいました。
さらに、李承晩が大統領就任以前にアメリカ大統領ウィルソンへ提出していた委任統治請願も問題となりました。
この請願は、国際社会の管理下で朝鮮の自治を進める構想と受け止められ、独立を即時に実現すべきだと考える人々から強い批判を受けました。
こうした対立によって、臨時政府の運営は次第に不安定になっていきました。
1923年の国民代表会議が決裂した
臨時政府の危機を打開するため、1923年には上海で国民代表会議が開かれました。
この会議には、国内や満州、沿海州、アメリカなどから130人以上の代表が集まりました。
しかし、臨時政府をどのように立て直すかをめぐって意見が分かれました。
- 改造派:臨時政府の組織や制度を改革して存続させるべきだと主張。
- 創造派:既存の臨時政府を解体し、新しい政府を設立すべきだと主張。
両者は最後まで合意できず、国民代表会議は決裂しました。
この対立によって臨時政府の求心力は低下し、資金や人材の確保も難しくなっていきました。
7.金九と尹奉吉はなぜ臨時政府の再建に貢献したのか?
1920年代に苦境に陥った臨時政府は、1930年代に入ると再び注目を集めることになります。
その中心人物となったのが金九です。
金九が韓人愛国団を結成した
金九は、臨時政府の活動を立て直すため、1931年に韓人愛国団を組織しました。
韓人愛国団は、日本の要人や軍関係者などを標的とする義挙を計画した組織です。
その活動として知られるのが、1932年の李奉昌と尹奉吉による義挙です。
1932年1月、李奉昌が東京で爆弾を投げた
1932年1月8日、韓人愛国団員の李奉昌は、東京の桜田門付近で昭和天皇を狙って爆弾を投げました。
計画は失敗し、昭和天皇に被害はありませんでした。李奉昌は逮捕され、同年10月に処刑されました。
この事件は、日本の支配に抵抗する独立運動が続いていることを示す出来事となりました。
1932年4月、尹奉吉が上海で義挙を行った
1932年4月29日、上海の虹口公園で、天長節と第一次上海事変の勝利を祝う式典が開催されました。
そこに参加していた日本軍関係者らに向けて、韓人愛国団員の尹奉吉が爆弾を投げました。
この義挙によって、上海派遣軍司令官の白川義則らが死傷しました。
尹奉吉はその場で逮捕され、同年12月に処刑されました。
尹奉吉の義挙によって中国側の支援が強まった
尹奉吉の義挙は、中国国内でも大きく報道されました。
当時、中国では日本軍による満州侵略や上海への軍事行動に対する反発が強まっていました。
そのため、尹奉吉の行動は中国側の関心を集め、蒋介石率いる中国国民党政府が臨時政府を支援するきっかけとなりました。
金九と臨時政府は、中国側との協力関係を強め、独立運動を続けるための新たな基盤を得たのです。
8.大韓民国臨時政府はなぜ上海を離れたのか?
1932年の尹奉吉の義挙後、日本側は事件の関係者を追跡し、臨時政府への取り締まりを強めました。
そのため、臨時政府の関係者は上海にとどまることが難しくなり、中国各地へ移動することになります。
上海から重慶まで移動を続けた
臨時政府は1932年に上海を離れた後、杭州、鎮江、長沙、広州、柳州、綦江などへ拠点を移しました。
背景には、日本軍の追跡だけでなく、1937年に始まった日中戦争の拡大もありました。
日本軍が中国各地へ進出するなか、臨時政府は安全な活動拠点を確保するため、内陸部へと移動していきます。
そして1940年9月、臨時政府は中国の重慶に定着しました。
この移動期間は、臨時政府の歴史のなかで「移動時期」と呼ばれています。
9.1940年、韓国光復軍が結成された
重慶に拠点を置いた臨時政府は、軍事組織の整備を本格化させました。
韓国光復軍の創設
1940年9月17日、臨時政府は韓国光復軍の総司令部を設立しました。
韓国光復軍は、日本との戦争を通じて朝鮮の独立を実現することを目指した軍事組織です。
総司令部は重慶に置かれ、臨時政府の軍事部門として活動しました。
ただし、資金や装備の面では中国国民党政府からの支援に依存しており、当初は中国側の軍事的な統制を受けるなど、独自の活動には制約もありました。
日本に宣戦布告し、連合国との協力を目指した
1941年12月、日本が真珠湾攻撃を行い、アジア太平洋戦争が始まりました。
臨時政府は同月、日本に対する宣戦声明を発表します。
これは、日本と戦う連合国の一員として認められ、戦後の独立交渉で正当な立場を得ることも狙ったものでした。
1942年には中国側の支援を受けながら、韓国光復軍の活動を進めました。
また、1944年には独立運動の左右両派を含む臨時政府の体制が整えられ、政治的な統合も進みました。
10.大韓民国臨時政府は日本の敗戦後どうなったのか?
1945年8月、日本がポツダム宣言を受諾し、第二次世界大戦は終結に向かいました。
朝鮮半島は日本の植民地支配から解放され、臨時政府にとっても長年目指してきた独立が実現することになります。
臨時政府は正式な政府として帰国できなかった
臨時政府は、解放後に朝鮮半島へ戻り、自らの手で新しい国家を建設することを目指しました。
しかし、アメリカなどの連合国は、臨時政府を朝鮮半島の正式な政府として承認していませんでした。
そのため、臨時政府の指導者たちは政府代表としてではなく、個人の資格で帰国することになりました。
1945年11月、金九ら臨時政府の主要人物が帰国しましたが、臨時政府そのものがそのまま朝鮮半島の政権を引き継ぐことはできませんでした。
1948年の大韓民国建国へとつながる
1948年8月15日、朝鮮半島南部に大韓民国が成立しました。
その憲法の前文には、三・一運動によって大韓民国を建てた独立精神を継承するという趣旨が盛り込まれています。
つまり、大韓民国臨時政府は、解放後の国家を直接運営することはできませんでしたが、後の大韓民国が自らの歴史的な正統性を説明するうえで重要な存在となりました。
まとめ:大韓民国臨時政府は27年間、海外で韓国の独立を目指し続けた
大韓民国臨時政府は、1919年4月11日に上海で成立した、朝鮮の独立を目指す亡命政府です。
- 1910年の韓国併合によって独立国家を失ったことが成立の背景となった。
- 三・一運動によって独立を求める人々の意思が国内外に示された。
- 1919年4月11日、上海で臨時議政院と臨時憲章を整え、民主共和制を掲げた。
- 漢城政府や大韓国民議会との統合によって、1919年9月に統合政府が発足した。
- 外交活動や国内連絡網の整備、独立軍の育成を進めた。
- 李承晩ら指導者間の対立や資金不足によって、1920年代には危機に陥った。
- 金九が韓人愛国団を組織し、李奉昌や尹奉吉の義挙によって再び注目を集めた。
- 1940年には重慶で韓国光復軍を創設し、日本との戦争に参加する姿勢を示した。
- 1945年に日本が敗戦すると解放を迎えたが、臨時政府は正式な政府として承認されないまま帰国した。
大韓民国臨時政府は、朝鮮の独立を実現するために海外で活動を続けた政治組織でした。
外交や軍事活動、国内との連絡網づくりなど、さまざまな方法で独立を目指しましたが、内部対立や資金不足、国際社会からの承認が得られないという困難にも直面しました。
それでも約27年間にわたって組織を維持し、韓国光復軍を創設するなど、独立運動の重要な拠点であり続けました。
日本の敗戦後にそのまま政権を引き継ぐことはできませんでしたが、臨時政府が掲げた民主共和制と独立の理念は、後の大韓民国の歴史にも受け継がれていったのです。
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