帝国議会はなぜ開設されたのか?第1回総選挙と明治時代の議会政治
1890年、日本の政治史における大きな転換点が訪れました。大日本帝国憲法に基づく帝国議会が開設されたのです。
それまで明治政府の政治は、薩摩や長州などの出身者を中心とする有力者によって運営されていました。しかし、自由民権運動によって国会開設を求める声が全国に広がり、政府も議会の設置を約束することになります。
1890年7月には第1回衆議院議員総選挙が行われ、同年11月には第1回帝国議会が開かれました。
ところが、議会が始まると、政府と議会の間では予算や政策をめぐる激しい対立が起こります。日本の議会政治は、最初から順調に進んだわけではありませんでした。
今回は、帝国議会が開設された理由から、第1回総選挙の結果、政府と民党の対立、初期議会の展開までを解説します。
1.帝国議会とは何だったのか?
帝国議会とは、大日本帝国憲法のもとで設置された日本の立法機関です。
1890年11月29日に第1回帝国議会が開かれ、1947年に日本国憲法のもとで国会が成立するまで存続しました。
帝国議会は、現在の国会と同じように二つの議院から構成されていました。
貴族院と衆議院の二院制だった
帝国議会は、貴族院と衆議院から構成されていました。
- 貴族院:皇族、華族、天皇が任命した議員などによって構成された。
- 衆議院:選挙によって選ばれた議員によって構成された。
衆議院は国民の一部が選挙で選んだ代表者によって構成されました。一方、貴族院は選挙だけで構成される議院ではなく、皇族や華族、勅任議員などが参加する仕組みでした。
法律や予算などを審議する際には、両院が重要な役割を担いました。
帝国議会は現在の国会と何が違ったのか?
帝国議会は、現在の国会と同じく法律や予算を審議する機関でしたが、政治制度には大きな違いがありました。
現在の日本国憲法では、国会が国権の最高機関であり、内閣総理大臣は国会の議決によって指名されます。
一方、大日本帝国憲法では天皇が統治権を総攬し、内閣は天皇を輔弼する仕組みでした。帝国議会が内閣を選ぶ制度ではなかったのです。
そのため、帝国議会が開設されても、政府と議会の関係は現在の議院内閣制とは大きく異なっていました。
2.帝国議会はなぜ開設されたのか?
帝国議会が開設された背景には、自由民権運動による政治改革の要求と、明治政府が近代国家を完成させようとした事情がありました。
理由① 自由民権運動によって国会開設を求める声が高まった
明治政府は、少数の有力者によって政治を運営していました。
こうした政治のあり方に反発した人々は、国民が選んだ代表者による議会を設置するよう求めました。
1874年には板垣退助らが民撰議院設立建白書を提出し、その後、自由民権運動が全国に広がりました。
1880年には国会期成同盟が結成され、国会開設を求める請願運動が活発化します。
政府に対する政治改革の要求は強まり、国会開設は避けて通れない課題となっていきました。
理由② 1881年の国会開設の勅諭で開設が約束された
1881年、明治政府は国会開設の勅諭を発しました。
これは、1890年を期して国会を開設することを明らかにしたものです。
自由民権運動による要求が高まるなか、政府は国会開設の時期を示すことで政治的な混乱を抑えようとしました。
ただし、政府が目指したのは、国民の代表に政治を全面的に委ねる制度ではありませんでした。天皇を統治の中心に置きながら、議会を組み込む立憲政治を実現しようとしていたのです。
理由③ 近代国家としての制度を整える必要があった
明治政府は、欧米諸国と対等な関係を築くため、近代的な政治制度や法律を整備する必要がありました。
憲法の制定と議会の開設は、日本が近代国家として発展していることを国内外に示す意味も持っていました。
こうして1889年に大日本帝国憲法が発布され、翌1890年に帝国議会が開設されることになりました。
3.第1回衆議院議員総選挙はどのように行われたのか?
帝国議会の開設に先立ち、1890年7月1日に第1回衆議院議員総選挙が実施されました。
日本で初めて、憲法に基づく全国的な衆議院議員選挙が行われたのです。
選挙権を持つ人は人口の約1%だった
第1回総選挙では、すべての成人男性に選挙権が与えられたわけではありませんでした。
選挙権を持つことができたのは、満25歳以上の男子で、直接国税15円以上を納めている者に限られていました。
さらに、一定期間その府県に居住していることなどの条件もありました。
その結果、有権者は約45万人にとどまり、当時の人口の約1%にすぎませんでした。
女性には選挙権が認められておらず、納税条件を満たさない男性も投票できませんでした。
第1回総選挙では民党勢力が優勢となった
選挙では、自由民権運動を背景とする勢力が大きな存在感を示しました。
衆議院には、政府に批判的な立場をとる「民党」と、政府に比較的協調的な「吏党」と呼ばれる勢力が生まれました。
民党には立憲自由党や立憲改進党などが含まれ、地租軽減や政府経費の削減を主張しました。
一方、吏党には大成会など、政府に協調的な議員が集まりました。
選挙の結果、民党勢力が衆議院で多数を占め、政府にとって厳しい議会構成となりました。
選挙によって政党が政治の重要な担い手になった
それまでの明治政府では、政治の中心は政府高官や官僚でした。
しかし、選挙によって選ばれた議員が議会に集まったことで、政党や政治勢力が国家の予算や政策に影響を与えるようになりました。
これは、日本の政治が政府内部だけで決まる段階から、議会での議論や交渉を必要とする段階へ進んだことを意味していました。
4.第1回帝国議会はなぜ政府と対立したのか?
1890年11月29日、第1回帝国議会が開会しました。
しかし、議会では早くも政府と民党の対立が表面化します。最大の争点となったのが、国家予算でした。
政府は富国強兵を進めるための予算を必要としていた
当時の政府は、欧米列強に対抗できる国家をつくるため、軍備の拡充や産業の発展を進めていました。
特に山県有朋内閣は、国を守るためには軍備の充実が必要だと考えていました。
山県は、国境としての領土だけでなく、その安全に深く関係する地域も守る必要があるという「主権線・利益線」の考え方を示し、軍備拡張の必要性を訴えました。
そのため、政府は軍事費を含む予算を確保しようとしていました。
民党は民力休養と政費節減を主張した
一方、民党は政府の財政支出を削減し、国民の負担を軽くすることを求めました。
その中心となった主張が「民力休養・政費節減」です。
- 民力休養:地租などの負担を軽減し、国民の生活や経済活動に余裕を持たせること。
- 政費節減:政府の経費を削減し、無駄な支出を抑えること。
民党は、政府が進める軍備拡張や行政経費の増加を批判し、予算の削減を求めました。
政府と民党は、国家をどのように発展させるのかという点で、異なる考え方を持っていたのです。
予算成立をめぐって妥協が行われた
第1回帝国議会では、予算案をめぐって政府と民党が激しく対立しました。
しかし、議会を開設したばかりの日本が政治的な混乱に陥ることは、政府にとっても避けたい事態でした。
最終的には、民党の一部議員が政府側に協力するなどして妥協が成立し、予算案は可決されました。
この経験によって、政府は議会の協力を得なければ予算を成立させることが難しいと認識するようになります。
一方、民党側も、議会での交渉や妥協を通じて政策を実現する必要性を学んでいきました。
5.初期議会ではどのような対立が続いたのか?
第1回帝国議会の後も、政府と民党の対立は続きました。
第1回から第6回までの帝国議会は、一般に「初期議会」と呼ばれています。
政府は超然主義を掲げた
明治政府は、特定の政党に依存せず、超然として政治を行うという立場をとりました。
これが「超然主義」です。
政府は、政党の意見に左右されず国家全体の利益を考えて政治を進めるべきだと主張しました。
しかし、衆議院では民党が多数を占めていたため、政府は予算や法案を成立させる際に議会との調整を迫られました。
第2回帝国議会では予算をめぐる対立が深まった
1891年に開かれた第2回帝国議会でも、予算をめぐる政府と民党の対立が続きました。
政府は軍備拡張などに必要な予算を確保しようとしましたが、民党は経費削減を求めました。
政府は議会との対立を解消できず、衆議院を解散する決断を下しました。
その後の第2回衆議院議員総選挙では、政府側による選挙干渉が問題となります。
政府は、民党の勢力を抑えようとしましたが、選挙後も民党は衆議院で大きな影響力を保ちました。
第4回帝国議会では軍艦建造費をめぐって対立した
1892年に成立した第2次伊藤博文内閣のもとでも、政府と議会の対立は続きました。
特に1892年末から1893年にかけて開かれた第4回帝国議会では、軍艦建造費をめぐって激しい対立が起こりました。
政府は海軍力を強化するための予算を求めましたが、民党側は財政負担の増加を問題視し、削減を主張しました。
議会では政府への批判が強まり、政治的な行き詰まりが深刻化しました。
1893年、和協の詔勅によって対立が収まった
対立が続くなか、1893年2月、明治天皇は政府と議会に協力を求める「和協の詔勅」を発しました。
この詔勅では、皇室費の節約分を軍艦建造費に充てることなどが示されました。また、政府側の官吏も俸給の一部を納めることになりました。
これによって政府と民党の対立はひとまず収まり、軍艦建造費を含む予算が成立しました。
この出来事は、政府と議会が対立するだけでなく、政治的な妥協によって問題を解決する必要があることを示しました。
6.初期議会は日本の政党政治に何をもたらしたのか?
初期議会では、政府と民党が何度も対立しました。しかし、その過程で日本の政党政治の基礎が形づくられていきました。
政府は議会の協力なしに政治を進めにくくなった
大日本帝国憲法では、内閣は衆議院の信任によって成立する仕組みではありませんでした。
それでも、予算や法律を成立させるためには議会の協力が必要でした。
政府は、政党を無視して政治を進めることが難しくなり、次第に政党との協力や交渉を模索するようになります。
政党も政府との協力を重視するようになった
民党も、政府を批判するだけでは政策を実現できないことを経験しました。
議会で多数を確保し、予算や法律の審議を通じて政府に影響を与えることが重要になったのです。
その結果、政府と政党が対立しながらも、必要に応じて協力する政治のあり方が生まれていきました。
1898年には日本初の本格的な政党内閣が誕生した
初期議会を経て、政党は日本政治における重要な勢力へと成長していきました。
そして1898年、自由党系の勢力と進歩党が合同して憲政党が結成され、その後、大隈重信を首班とする第1次大隈内閣が成立しました。
これは、一般に日本初の本格的な政党内閣とされています。
ただし、政党が政治の中心を完全に掌握したわけではありません。明治時代の政治では、藩閥勢力や元老なども大きな影響力を持ち続けました。
まとめ:帝国議会の開設によって日本の議会政治が始まった
帝国議会は、自由民権運動による国会開設要求と、明治政府が進めた近代国家づくりを背景に1890年に開設されました。
- 1881年、明治政府は国会開設の勅諭を発し、1890年の開設を約束した。
- 1889年に大日本帝国憲法が発布され、議会制度の枠組みが整った。
- 1890年7月1日、第1回衆議院議員総選挙が実施された。
- 選挙権は満25歳以上で直接国税15円以上を納める男子に限られ、有権者は人口の約1%だった。
- 1890年11月29日、第1回帝国議会が開会した。
- 衆議院では民党が優勢となり、政府と予算をめぐって対立した。
- 第1回から第6回までの議会は初期議会と呼ばれ、政府と民党の対立や妥協が繰り返された。
- 1893年の和協の詔勅によって、政府と議会の対立は一時的に収まった。
- 1898年には第1次大隈内閣が成立し、政党政治が新たな段階に進んだ。
帝国議会の開設は、日本の政治が政府高官による運営だけではなく、選挙で選ばれた議員による議論を必要とする時代に入ったことを意味していました。
最初の議会では政府と民党が激しく対立しましたが、その対立と妥協を繰り返すなかで、議会政治の運用方法や政党の役割が少しずつ形づくられていきました。
自由民権運動から始まった国会開設への要求は、こうして日本の近代政治を動かす大きな力となったのです。
コメント