ついに20万PVを突破。これも皆さんのおかげです。ありがとうございます。

大日本帝国憲法はなぜ制定されたのか?伊藤博文と明治政府が目指した立憲国家

大日本帝国憲法はなぜ制定されたのか?伊藤博文と明治政府が目指した立憲国家

1889年2月11日、日本の近代国家の仕組みを大きく変える出来事がありました。大日本帝国憲法の発布です。

明治政府は、欧米諸国に対抗できる近代国家をつくるため、政治制度の整備を進めていました。その重要な柱となったのが、憲法の制定と議会の開設です。

憲法制定の中心人物となったのは、初代内閣総理大臣でもある伊藤博文でした。伊藤はヨーロッパに渡って各国の憲法や政治制度を調査し、日本に適した制度を検討しました。

こうして制定された大日本帝国憲法は、天皇を統治権の中心に置きながら、帝国議会や裁判所などを設ける立憲国家の仕組みを定めたものでした。

今回は、大日本帝国憲法が制定された理由から、伊藤博文の憲法調査、憲法の特徴、そして日本の政治に与えた影響までを解説します。

目次

1.大日本帝国憲法とは何だったのか?

大日本帝国憲法とは、1889年2月11日に発布された、日本で最初の近代的な憲法です。

明治天皇の名によって発布されたことから、欽定憲法と呼ばれます。欽定憲法とは、君主が制定する形式をとる憲法のことです。

憲法は全7章76条で構成され、天皇の権限、国民の権利と義務、帝国議会、裁判所などについて定めていました。

大日本帝国憲法の基本的な仕組み

  • 天皇を国家統治の中心に置く。
  • 天皇が統治権を総攬する。
  • 天皇の立法権は帝国議会の協賛を得て行使する。
  • 帝国議会は貴族院と衆議院の二院制とする。
  • 国民には法律の範囲内で一定の権利を認める。
  • 司法権を行政権から独立させる。

大日本帝国憲法によって、日本は憲法に基づいて国家を運営する立憲国家となりました。

ただし、現在の日本国憲法とは基本的な考え方が異なります。大日本帝国憲法では天皇が統治権の中心に置かれ、国民の権利も法律による制限を受ける仕組みでした。

2.大日本帝国憲法はなぜ制定されたのか?

明治政府が憲法制定を進めた背景には、国内の政治的な要求と、欧米諸国に対抗するための国家づくりという二つの大きな課題がありました。

理由① 自由民権運動によって国会開設を求める声が高まった

明治政府は、薩摩や長州などの出身者を中心とする少数の有力者によって運営されていました。

こうした政治のあり方に不満を持つ人々は、国民が選んだ代表者による議会の設置を求めるようになります。

1874年には板垣退助らが民撰議院設立建白書を提出し、その後、自由民権運動が全国に広がりました。

1880年には国会期成同盟が結成され、国会開設を求める請願運動が活発化します。

こうした動きを受け、明治政府は1881年に国会開設の勅諭を発し、1890年を期して国会を開設することを約束しました。

国会を開設するためには、議会の権限や政治の仕組みを定める必要があります。そのため、憲法制定が本格的に進められることになりました。

理由② 欧米列強に対抗できる近代国家をつくる必要があった

明治時代の日本は、欧米列強によるアジア進出に直面していました。

欧米諸国と対等な外交関係を築くためには、近代的な法律や政治制度を整え、国家としての体制を強化する必要がありました。

特に重要だったのが、不平等条約の改正です。

日本は幕末に結ばれた条約によって、領事裁判権を認め、関税自主権も十分に持っていませんでした。

明治政府は、近代的な法制度や憲法を整えることで、日本が欧米諸国と対等な国家であることを示そうとしました。

憲法制定は、国内の政治制度を整えるだけでなく、国際社会における日本の地位を高めるための政策でもあったのです。

理由③ 政府の権力を維持しながら立憲政治を導入したかった

明治政府は、自由民権運動の要求に応える必要がある一方で、急激な政治改革によって政府の統治力が弱まることも警戒していました。

そのため、国会を設置しても、政府や天皇の権限を大きく制限する制度には慎重でした。

政府が目指したのは、議会を設けながらも、天皇を中心とする国家の仕組みを維持することでした。

この方針が、大日本帝国憲法の特徴を形づくっていきます。

3.伊藤博文はなぜヨーロッパへ憲法調査に向かったのか?

大日本帝国憲法の制定で中心的な役割を果たしたのが伊藤博文です。

伊藤は、1882年に政府の命を受けてヨーロッパへ渡り、各国の憲法や政治制度を調査しました。

イギリスやフランスではなく、ドイツなどの制度を重視した

当時のヨーロッパには、さまざまな政治制度が存在していました。

イギリスでは議会の力が強く、議会政治が発達していました。一方、プロイセンでは君主の権限が強く、議会の権限は比較的限定されていました。

伊藤はヨーロッパで政治制度を調査し、プロイセンを中心とするドイツの立憲制度を日本の参考にする方針を固めていきます。

プロイセン憲法は、君主の権限を重視しながら議会を設ける制度でした。天皇を中心とする国家体制を維持したい明治政府にとって、参考にしやすい仕組みだったのです。

シュタインらの学者から政治制度を学んだ

伊藤はヨーロッパ滞在中、オーストリアのウィーンなどで政治学や行政制度について学びました。

特に、ドイツやオーストリアの国家制度に詳しい学者たちから、立憲政治や行政組織のあり方について助言を受けました。

こうした調査を通じて、伊藤は憲法を単に文章として制定するだけではなく、行政制度や議会、裁判所などを含む国家全体の仕組みとして整える必要性を理解していきました。

1883年に帰国した伊藤は、憲法制定に向けた準備を本格化させます。

4.大日本帝国憲法はどのように作られたのか?

伊藤博文が帰国した後、政府は憲法制定に向けた制度づくりを進めました。

内閣制度や華族制度が整備された

憲法制定に先立ち、明治政府は国家の統治機構を整備していきました。

1885年には太政官制が廃止され、内閣制度が創設されました。初代内閣総理大臣には伊藤博文が就任しています。

また、1884年には華族令が制定され、貴族院を構成することになる華族制度も整えられました。

これらの改革は、憲法の制定と議会開設に向けた準備の一環でした。

井上毅や伊東巳代治、金子堅太郎らが草案を作成した

憲法草案の作成には、伊藤博文だけでなく、複数の政治家や法律家が参加しました。

中心となった人物は次のとおりです。

  • 伊藤博文:憲法制定の中心人物。欧州調査を行い、草案作成を主導した。
  • 井上毅:法律や制度に詳しく、憲法草案の作成に重要な役割を果たした。
  • 伊東巳代治:草案作成や文書の整理などを担当した。
  • 金子堅太郎:憲法制定作業に参加し、欧米の制度にも通じていた。

ドイツ人法律顧問のロエスレルらからも助言を受けながら、憲法草案がまとめられていきました。

夏島草案が作成された

1887年には、伊藤博文、井上毅、伊東巳代治、金子堅太郎らによって憲法草案の検討が進められました。

神奈川県の夏島にあった伊藤の別荘で検討された草案は「夏島草案」と呼ばれています。

その後も修正や検討が重ねられ、1888年には枢密院で憲法案の審議が始まりました。

枢密院で審議され、憲法が完成した

枢密院とは、天皇の重要な諮問機関として設置された機関です。

憲法案は枢密院で審議され、条文の内容や制度のあり方について検討が重ねられました。

こうして憲法制定の準備が整い、1889年2月11日、大日本帝国憲法が発布されました。

5.大日本帝国憲法の特徴とは?

大日本帝国憲法には、現在の日本国憲法とは異なる特徴がありました。特に重要なのが、天皇の権限、帝国議会の仕組み、国民の権利です。

特徴① 天皇が統治権を総攬した

大日本帝国憲法の第1条には、日本は万世一系の天皇が統治すると定められていました。

さらに第4条では、天皇が国の元首として統治権を総攬すると規定されています。

つまり、国家統治の中心に天皇を置く仕組みだったのです。

天皇には、議会の召集や衆議院の解散、法律の裁可、陸海軍の統帥など、幅広い権限が認められていました。

特徴② 帝国議会は貴族院と衆議院の二院制だった

大日本帝国憲法では、立法に関わる機関として帝国議会が設置されました。

帝国議会は、貴族院と衆議院の二つの議院から構成されていました。

  • 貴族院:皇族、華族、天皇が任命した議員などで構成された。
  • 衆議院:選挙によって選ばれた議員で構成された。

法律の制定には、帝国議会の協賛が必要とされました。

ただし、議会が政府を直接選び、内閣を自由に交代させる現在の議院内閣制とは異なります。大日本帝国憲法のもとでは、内閣は天皇を輔弼する機関であり、国務大臣は天皇に対して責任を負う仕組みでした。

特徴③ 国民には法律の範囲内で権利が認められた

大日本帝国憲法では、国民は「臣民」と呼ばれ、一定の権利が認められました。

主なものには、次のような権利がありました。

  • 居住や移転の自由
  • 信教の自由
  • 言論や出版の自由
  • 集会や結社の自由
  • 所有権の保障

しかし、これらの権利は無制限ではありませんでした。多くの場合、法律の範囲内で認められるものとされ、政府による制限を受ける余地がありました。

現在の日本国憲法のように、基本的人権を侵すことのできない権利として保障する考え方とは大きな違いがありました。

特徴④ 三権分立の仕組みが設けられた

大日本帝国憲法では、立法・行政・司法の機能が制度上区別されました。

立法には帝国議会が関わり、行政は国務大臣などが担当し、司法は裁判所が担いました。

ただし、三権が完全に対等で独立していたわけではありません。天皇の統治権を中心とする制度のもとで、それぞれの権限が定められていました。

6.大日本帝国憲法の発布によって何が変わったのか?

大日本帝国憲法の発布は、日本の政治制度を大きく変える出来事でした。

日本が憲法に基づく立憲国家となった

憲法が制定されたことで、国家の統治や政治機関の権限が憲法によって定められることになりました。

政府の権力を制度によって整理し、議会や裁判所を設けたことは、日本の近代国家形成にとって大きな前進でした。

また、欧米諸国に対して、日本が近代的な法制度を備えた国家であることを示す意味もありました。

1890年、帝国議会が開設された

大日本帝国憲法の発布から翌年の1890年11月29日、憲法が施行され、帝国議会が開設されました。

同年7月には第1回衆議院議員総選挙が行われ、選挙によって選ばれた議員が国政に参加することになりました。

ただし、当時の選挙権は満25歳以上の男子で、直接国税15円以上を納める者に限られていました。

女性には選挙権がなく、投票できる人は人口のごく一部でした。

それでも、国民の代表が議会で法律や予算について議論する仕組みが始まったことは、日本の政治史における大きな転換点でした。

7.大日本帝国憲法はなぜ重要だったのか?

大日本帝国憲法は、現在の民主主義や人権保障の基準から見ると、制限の多い憲法でした。

しかし、制定された当時の日本にとっては、近代国家としての統治制度を整える重要な役割を果たしました。

憲法の制定によって、天皇、政府、議会、裁判所の関係が制度として整理され、日本の政治は新しい段階に進みました。

また、自由民権運動が求めた国会開設も実現しました。ただし、国民が政治の主権者となる制度ではなく、天皇主権を基本とする立憲体制だった点には注意が必要です。

大日本帝国憲法は、明治政府が近代国家をつくるために選択した政治制度であり、その後の日本の政治や社会に長く影響を与えることになりました。

まとめ:大日本帝国憲法は近代日本の政治制度を形づくった

大日本帝国憲法は、自由民権運動による国会開設要求や、欧米列強に対抗するための近代国家づくりを背景に制定されました。

  • 自由民権運動によって国会開設と憲法制定を求める声が高まった。
  • 1881年の国会開設の勅諭によって、1890年の国会開設が約束された。
  • 伊藤博文は1882年にヨーロッパへ渡り、各国の憲法や政治制度を調査した。
  • 明治政府は君主権の強いプロイセン憲法を参考にした。
  • 井上毅、伊東巳代治、金子堅太郎らが伊藤とともに憲法草案を作成した。
  • 1889年2月11日、大日本帝国憲法が発布された。
  • 天皇を統治権の中心に置き、貴族院と衆議院からなる帝国議会を設けた。
  • 1890年11月29日に憲法が施行され、帝国議会が開設された。

大日本帝国憲法の制定は、日本が近代的な立憲国家へと進む重要な出来事でした。

一方で、天皇主権を基本とし、国民の権利や政治参加には大きな制限がありました。自由民権運動が求めた国会開設は実現したものの、現在の民主主義とは異なる政治制度だったのです。

この憲法のもとで、日本の議会政治は1890年に始まります。そして、政府と議会がどのように対立し、協力しながら政治を進めていくのかが、明治時代の重要な課題となっていきました。

\ 最新情報をチェック /

この記事が気に入ったら
フォローしてね!

よかったらシェアしてね!
  • URLをコピーしました!
  • URLをコピーしました!

この記事を書いた人

コメント

コメントする

目次