自由民権運動はなぜ起きたのか?板垣退助と国会開設を求めた人々の戦い
1877年、西郷隆盛を中心とする士族たちが明治政府に反乱を起こした西南戦争は、政府軍の勝利によって終結しました。
しかし、明治政府に対する不満がなくなったわけではありません。政府の政治を一部の有力者が独占していることに反発し、国民が政治に参加できる仕組みを求める人々が増えていきました。
こうした動きから広がったのが「自由民権運動」です。
板垣退助らは、国民が選んだ代表者によって構成される議会の設置を政府に要求しました。運動は全国に広がり、政党の結成や憲法制定の議論へと発展していきます。
今回は、自由民権運動が起きた理由から、民撰議院設立建白書、国会開設運動、自由党・立憲改進党の結成、そして明治政府の対応までを解説します。
1.自由民権運動とは何だったのか?
自由民権運動とは、明治時代に国民の自由や権利を認めさせ、国会の開設や憲法の制定などを実現しようとした政治運動です。
中心となったのは、明治政府の政治に不満を持つ士族や知識人、地主、商工業者などでした。
彼らは、一部の政府高官が政治を独占する状態を批判し、国民の意見を政治に反映させる仕組みを求めました。
自由民権運動が求めたもの
運動の主な要求には、次のようなものがありました。
- 国民が選んだ代表者による議会の開設
- 憲法の制定と立憲政治の実現
- 言論や集会の自由の保障
- 地租の軽減
- 政府の政治運営に対する国民の参加
- 不平等条約の改正など外交政策の改善
ただし、自由民権運動に参加した人々の考え方は一様ではありませんでした。議会の権限や政治制度のあり方、運動の進め方をめぐって、さまざまな意見が存在していました。
2.自由民権運動はなぜ始まったのか?
自由民権運動が広がった背景には、明治政府の政治に対する不満がありました。
理由① 一部の政府高官が政治を独占していた
明治政府は、薩摩藩や長州藩などの出身者を中心とする有力者によって運営されていました。
彼らは、近代国家をつくるためにさまざまな改革を進めましたが、国民が政治に参加する制度は十分に整っていませんでした。
政府の重要な方針は、限られた政治家や官僚によって決定されることが多く、一般の人々が政策決定に関与する機会は限られていました。
こうした政治のあり方は、民権派から「有司専制」と批判されました。有司とは政府の役人や高官を指し、一部の役人による独占的な政治を意味します。
民権派は、国民の代表者が集まる議会を設置することで、政府の政治を監視し、国民の意見を反映させるべきだと考えたのです。
理由② 明治六年の政変で板垣退助らが政府を去った
自由民権運動の出発点を理解するうえで重要なのが、1873年の明治六年の政変です。
当時の政府では、朝鮮への使節派遣をめぐって意見が対立していました。西郷隆盛や板垣退助らは使節派遣を主張しましたが、岩倉具視や大久保利通らは反対しました。
最終的に使節派遣は見送られ、西郷や板垣らは政府を去りました。
政府を離れた板垣らは、政治のあり方を変えるため、国民の代表による議会を設置する必要性を訴えるようになります。
こうして、政府の外から政治改革を求める動きが本格化していきました。
理由③ 西南戦争後、武力ではなく言論で政府を変えようとする動きが広がった
1877年の西南戦争は、明治政府に対する士族の大規模な武力反乱の最後のものとなりました。
西郷隆盛らが敗れたことで、武力によって政府を倒そうとする動きは大きく後退します。
一方、政府の政治に不満を持つ人々の間では、演説会や政治結社、新聞などを通じて意見を広め、制度そのものを変えようとする動きが強まりました。
自由民権運動は、こうした時代の変化のなかで全国的な政治運動へと発展していったのです。
3.民撰議院設立建白書とは何だったのか?
自由民権運動の出発点として知られるのが、1874年1月17日に提出された「民撰議院設立建白書」です。
板垣退助らが国民の代表による議会を要求した
板垣退助、後藤象二郎、副島種臣、江藤新平らは、1874年に政治結社「愛国公党」を結成しました。
そして、政府の左院に対して民撰議院設立建白書を提出しました。
建白書では、一部の政府高官が政治を独占する状態を批判し、国民が選んだ代表者による議会を設置することを求めました。
当時の日本では、国民が選挙で代表者を選び、その代表者が政治について議論する制度はまだ実現していませんでした。
板垣らは、国民の意見を政治に反映させるためには、民撰議院の設置が必要だと考えたのです。
建白書が新聞に掲載され、議会開設の議論が広がった
民撰議院設立建白書は新聞にも掲載され、社会に大きな反響を与えました。
議会を設置すべきかどうか、また設置する場合にはどのような制度にするべきかをめぐって、さまざまな議論が起こりました。
愛国公党自体は長く存続しませんでしたが、建白書の提出は、国民の政治参加を求める運動が広がる大きなきっかけとなりました。
4.自由民権運動はどのように全国へ広がったのか?
民撰議院設立建白書の提出後、自由民権運動は各地に広がっていきました。
立志社が土佐で活動を展開した
1874年、板垣退助は故郷の土佐で政治結社「立志社」を設立しました。
立志社は、自由民権思想を広めるために演説会や学習活動などを行い、政治改革を求める人々を集めました。
土佐は板垣の出身地であり、明治政府の成立後に政治の中心から離れた旧土佐藩士も多くいました。
こうした人々が運動に参加したことで、立志社は自由民権運動の重要な拠点となりました。
愛国社が結成され、全国的な連携が進んだ
1875年には、各地の民権派が連携するための組織として愛国社が結成されました。
その後、一時的に活動が停滞したものの、1878年に再興され、全国各地の政治結社を結びつける役割を果たしました。
地域ごとに活動していた民権派が連携することで、国会開設を求める運動は全国的な広がりを見せるようになります。
農民や商工業者も運動に参加した
自由民権運動は、最初からすべての人々が参加する運動だったわけではありません。
初期には士族や知識人が中心でしたが、次第に地主や商工業者、農民などにも参加者が広がっていきました。
特に、地租の負担に不満を持つ農村では、地租軽減を求める動きと自由民権運動が結びつくこともありました。
また、女性の政治参加や権利を主張する女性民権家も現れ、運動の裾野は広がっていきました。
5.国会開設運動はなぜ盛り上がったのか?
自由民権運動は、1870年代後半になると、国会開設を具体的に求める運動へと発展していきました。
1879年、国会開設を求める動きが活発化した
1879年ごろから、各地の民権派は国会開設を求める建白書や請願書を政府に提出するようになりました。
政府に対して議会の必要性を訴えるだけでなく、全国の人々の賛同を集め、政治的な圧力を強めようとしたのです。
1880年、国会期成同盟が結成された
1880年には、愛国社の大会をきっかけとして「国会期成同盟」が結成されました。
国会期成同盟は、国会開設を実現するために全国の民権派を結びつけ、政府への請願運動を進めました。
各地から多くの署名が集められ、国会開設を求める請願書が政府に提出されました。
こうして自由民権運動は、地域ごとの政治活動から、国会開設という共通目標を持つ全国的な運動へと発展したのです。
政府は集会や言論を規制した
自由民権運動が盛り上がる一方、明治政府は民権派の活動を警戒していました。
1880年には集会条例が制定され、政治集会や結社の活動に対する規制が強化されました。
政府は、政治的な反対運動が拡大することを抑えようとしましたが、国会開設を求める声は簡単には収まりませんでした。
6.自由党と立憲改進党はなぜ結成されたのか?
自由民権運動が広がるなかで、運動を政治の場につなげようとする動きが強まりました。その結果、1880年代初めに政党が結成されます。
1881年、板垣退助を中心に自由党が結成された
1881年、板垣退助らは自由党を結成しました。
自由党は、自由民権運動の中心的な政党であり、国会開設や憲法制定、国民の自由と権利の拡大を目指しました。
フランスの自由主義思想の影響を受けたとされ、政府の権力を制限し、国民の政治参加を広げることを重視しました。
自由党の結成によって、自由民権運動は政治結社を中心とする活動から、政党政治を目指す段階へと進みました。
1882年、大隈重信を中心に立憲改進党が結成された
1882年には、大隈重信を中心として立憲改進党が結成されました。
立憲改進党も国会開設や憲法制定を求めましたが、自由党とは政治制度や運動方針に違いがありました。
イギリスの議会政治を参考にした漸進的な改革を重視し、議会を通じて政治を改善していくことを目指しました。
自由党と立憲改進党は、ともに自由民権運動から生まれた政党でしたが、支持層や政治的な考え方には違いがありました。
7.明治十四年の政変はなぜ起きたのか?
自由民権運動が盛り上がるなか、1881年には明治政府の内部でも政治方針をめぐる大きな対立が起こりました。
これが「明治十四年の政変」です。
政府内部で国会開設の時期や制度をめぐって対立した
当時の政府では、国会をいつ開設するのか、どのような憲法や議会制度を採用するのかをめぐって意見が分かれていました。
大隈重信は、比較的早い段階で国会を開設し、イギリス型の議会政治を参考にする方向を主張しました。
一方、伊藤博文らは、君主大権を重視するドイツ型の立憲君主制を参考にし、慎重に制度を整える方針をとっていました。
開拓使官有物払下げ事件が政治問題になった
さらに、北海道開拓使が所有する官有物を、民間に安い価格で払い下げようとした問題が発覚しました。
この払い下げ計画は、政府高官と関係者とのつながりが疑われ、民権派や新聞から強い批判を受けました。
政府に対する不信感が高まるなか、国会開設を求める声も一層強まっていきました。
大隈重信が政府を去り、国会開設の勅諭が出された
1881年、政府内の対立が深まり、大隈重信は政府から追放されました。
これが明治十四年の政変です。
その後、明治政府は国会開設を約束する勅諭を発し、1890年を期して国会を開設する方針を示しました。
政府は国会開設の時期を明確にすることで、自由民権派の要求に一定の回答を示し、政治的な混乱を収めようとしたのです。
一方、自由民権運動は、国会開設という目標が具体化したことで、政党を中心とする新しい段階へ進んでいきました。
8.自由民権運動は日本の歴史にどのような影響を与えたのか?
自由民権運動は、明治政府に国会開設を約束させただけでなく、日本の政治制度や社会にも大きな影響を与えました。
憲法制定と国会開設への道を開いた
自由民権運動によって、国会や憲法の必要性が広く議論されるようになりました。
政府も憲法制定に向けた準備を進め、伊藤博文らが中心となって立憲政治の制度づくりを進めました。
1889年には大日本帝国憲法が発布され、1890年には帝国議会が開設されました。
自由民権運動が求めた国会開設は、こうして現実の制度となったのです。
国民の政治参加への意識が高まった
自由民権運動では、演説会や新聞、政治結社などを通じて、政治について議論する機会が増えました。
政治は政府や一部の有力者だけが決めるものではなく、国民も意見を述べ、制度のあり方に関わるべきだという考え方が広がっていきました。
この経験は、その後の日本の政党政治や選挙制度の発展にもつながっていきます。
ただし、すぐに国民全員が政治に参加できたわけではない
1890年に行われた第1回衆議院議員総選挙では、選挙権が満25歳以上の男子で、直接国税15円以上を納める者に限られていました。
そのため、選挙権を持つ人は当時の人口の約1%にとどまりました。
女性には選挙権が認められず、納税額などの条件を満たさない多くの男性も投票できませんでした。
自由民権運動によって議会政治への道は開かれましたが、広く国民が政治に参加できる制度が実現するまでには、さらに長い時間が必要だったのです。
まとめ:自由民権運動は国民が政治に参加する道を切り開いた
自由民権運動は、明治政府による政治の独占を批判し、国会開設や憲法制定、国民の自由と権利の拡大を求めた運動でした。
- 明治政府の政治が一部の有力者によって運営されていたことへの不満が高まった。
- 1873年の明治六年の政変で政府を去った板垣退助らが、政治改革を求める動きを始めた。
- 1874年、板垣退助らが民撰議院設立建白書を提出した。
- 立志社や愛国社などの政治結社が結成され、運動が各地に広がった。
- 1880年、国会期成同盟が結成され、国会開設を求める請願運動が進んだ。
- 1881年に自由党、1882年に立憲改進党が結成された。
- 1881年の明治十四年の政変を経て、政府は1890年の国会開設を約束した。
- 1889年に大日本帝国憲法が発布され、1890年に帝国議会が開設された。
自由民権運動は、明治政府に対する不満を武力ではなく、演説や新聞、政治結社、請願などを通じて訴えた運動でした。
板垣退助らが求めた国会開設は、すぐに実現したわけではありません。しかし、全国各地で政治について議論し、国民の代表による議会を求める活動が広がったことは、日本の近代政治にとって大きな転換点となりました。
そして1890年、日本で初めての帝国議会が開かれます。自由民権運動は、明治政府が進める近代化のなかで、国民が政治に参加する道を切り開いた重要な運動だったのです。
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