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学制はなぜ制定されたのか?明治政府が全国に学校をつくった理由と教育改革

学制はなぜ制定されたのか?明治政府が全国に学校をつくった理由と教育改革

1872年、明治政府は日本の教育制度を大きく変える改革を実施しました。それが「学制」です。

江戸時代にも寺子屋や藩校など、子どもたちが学ぶ場所は存在していました。しかし、全国共通の近代的な学校制度が整備されていたわけではありません。

明治政府は、欧米諸国に追いつくため、身分や男女の違いにかかわらず、広く国民が教育を受けられる仕組みをつくろうとしました。

その第一歩となったのが、1872年8月に公布された学制です。

ところが、学校を建設するための費用や授業料は地域住民の負担となり、教育内容も当時の日本の実情に合わない部分がありました。そのため、全国で学校を整備する過程では反発や混乱も起こりました。

なぜ明治政府は学制を制定したのでしょうか。改革の背景や制度の仕組み、当時の人々の反応、そしてその後の教育制度の変化まで解説します。

目次

1.学制とは何だったのか?

学制とは、1872年(明治5年)に明治政府が公布した、日本で最初の近代的な学校制度に関する基本法令です。

1871年に文部省が設置され、政府は全国の教育制度を整える準備を進めていました。そして1872年8月2日、太政官布告第214号などとともに学制が公布されました。

全国共通の学校制度をつくろうとした

学制が目指したのは、全国各地に学校を設置し、国民が教育を受けられる仕組みを整えることでした。

学制の序文にあたる「学事奨励ニ関スル被仰出書」では、教育を受けることの重要性が説かれています。

そこでは、身分や男女の違いにかかわらず、広く人々が学ぶことが望ましいとされました。

特に有名なのが、「邑に不学の戸なく家に不学の人なからしめんことを期す」という趣旨の一節です。

これは、全国のどの地域にも学ばない家庭がなく、学ばない人がいない社会を目指すという理想を表しています。

学制は欧米の教育制度を参考にしていた

明治政府は、近代的な教育制度をつくるにあたり、欧米諸国の制度を参考にしました。

学制の制度設計ではフランスの学校制度が大きな参考となり、教育内容などにはアメリカの影響も見られました。

日本の伝統的な教育をそのまま拡大するのではなく、欧米の近代教育を取り入れようとした点が大きな特徴です。

2.明治政府はなぜ学制を制定したのか?

学制が制定された背景には、明治政府が進めていた近代国家づくりがあります。

理由① 欧米諸国に追いつくために人材を育てる必要があった

19世紀の日本は、欧米諸国との国力の差を強く意識していました。

欧米では科学技術や産業が発展し、近代的な軍隊や行政制度も整えられていました。

明治政府は、日本も近代国家として発展するためには、読み書きや計算だけでなく、科学や技術、法律、経済などを学んだ人材が必要だと考えました。

学校教育を全国に広げることは、将来の行政官や技術者、産業の担い手を育てるための重要な政策だったのです。

理由② 身分制度にとらわれない教育を目指した

江戸時代には、武士の子どもが学ぶ藩校や、庶民が読み書きや算術を学ぶ寺子屋などがありました。

ただし、教育の内容や機会は地域や身分、家庭の事情などによって異なっていました。

明治政府は、近代国家をつくるためには、身分にかかわらず多くの人々が教育を受けられる制度が必要だと考えました。

学制では、男女の区別なく教育を広めるという方針も掲げられました。

もちろん、実際には家庭の事情や社会的な慣習などによって、男女の就学機会には大きな差がありました。それでも、教育を全国民に広げようとした点は重要な変化でした。

理由③ 中央集権国家を支える国民を育てる必要があった

明治政府は、1871年の廃藩置県によって、全国を中央政府が直接統治する体制を整えました。

しかし、行政制度を統一するだけでは、近代国家を十分に運営できません。

国民が共通の知識や能力を身につけ、社会や産業を支える人材となることも必要でした。

教育制度を全国で統一することは、中央集権国家を支える人材を育成するという意味も持っていたのです。

3.学制ではどのような学校制度がつくられたのか?

学制では、全国をいくつもの学区に分け、そのなかに学校を設置する計画が立てられました。

全国を大学区・中学区・小学区に分けた

学制では、フランスの制度を参考に、全国を大学区、中学区、小学区という段階に分ける構想が採用されました。

当初の制度では、全国を8つの大学区に分け、さらにその下に中学区、小学区を設ける計画でした。

各学区に学校を配置し、全国どこに住んでいても一定の教育を受けられるようにすることを目指したのです。

ただし、これは全国に学校を整備するための制度上の計画であり、当初から計画どおりに学校が設置されたわけではありません。

小学校から大学までの学校体系を構想した

学制では、小学校、中学校、大学などを段階的に整備することが想定されていました。

小学校では基礎的な知識を学び、その上の学校ではより高度な学問を学ぶという体系です。

小学校は、原則として6歳から13歳までの子どもを対象とし、下等小学と上等小学に分ける構想が示されました。

当時の日本では、全国に十分な数の学校や教員がそろっていなかったため、制度の実現には長い時間が必要でした。

寺子屋や藩校とは何が違ったのか?

江戸時代にも、庶民が読み書きや算術を学ぶ寺子屋や、武士が学問や武芸を学ぶ藩校がありました。

これらは日本の教育を支える重要な存在でしたが、学制によってつくられた学校制度とは仕組みが異なります。

比較項目 江戸時代 学制以降
主な教育機関 寺子屋・藩校など 小学校・中学校・大学など
制度 地域や身分などにより多様 全国共通の制度を目指す
教育内容 読み書き・算術・儒学など 欧米の教育を参考にした教科体系
運営 地域や藩、個人など 政府が制度を整備

学制の重要な点は、教育を一部の人々が受けるものではなく、全国民を対象とする制度として整備しようとしたことです。

4.学制の導入はなぜ簡単に進まなかったのか?

学制は大きな理想を掲げた改革でしたが、実際に全国で学校を整備するには多くの問題がありました。

学校を建設する費用が地域住民の負担になった

学制を実施するためには、学校の建物を用意し、教師を雇い、教材や設備を整える必要がありました。

しかし、明治政府には全国の学校をすべて建設・運営できるだけの財源が十分にあったわけではありません。

そのため、学校の建設や運営には、地域住民が負担する教育費、いわゆる民費が大きな役割を果たしました。

農村では、生活に余裕のない家庭も少なくありません。新しい学校をつくるための費用を負担することは、住民にとって大きな問題でした。

授業料も家庭の負担になった

学制のもとでは、授業料を徴収する仕組みも設けられました。

現代の日本のように、誰もが当たり前に学校へ通える環境が整っていたわけではありません。

農家では、子どもが農作業や家の仕事を手伝うことも重要でした。

そのため、授業料を払って子どもを学校に通わせることに、疑問や抵抗を感じる家庭もありました。

学校の数や教師が不足していた

全国に学校を設置するためには、教員を育成する必要もありました。

しかし、当時は近代的な学校教育を担当できる教師が十分にいませんでした。

また、欧米の教育制度を参考にした教科や授業方法を全国に広めるには、教材や設備も必要でした。

制度を定めることと、実際に学校を運営することの間には大きな隔たりがあったのです。

5.学制に対して人々はなぜ反発したのか?

学制による教育改革は、全国の人々に歓迎されたわけではありませんでした。

学校建設費や授業料への不満が高まった

学制では、学校をつくるための費用や授業料など、地域住民や家庭に経済的な負担が生じました。

特に農村では、地租改正などほかの改革による負担も重なっていました。

政府が進める近代化政策に対して、住民の不満が高まっていた時期でもあります。

そのため、学校の建設や運営に必要な費用を負担することに反対する人々も現れました。

西洋式の教育が地域の実情に合わない場合もあった

学制は欧米の教育制度を参考にしていたため、当時の日本の生活や地域社会にはなじみにくい部分もありました。

農村で暮らす家庭にとっては、子どもが学校に通う時間を確保すること自体が難しい場合もありました。

また、学校で学ぶ内容が日常生活や農業にどのように役立つのか、理解しにくい人々もいました。

こうした事情が、学制への反発につながったのです。

各地で学校への反対運動や打ちこわしが起きた

学校の建設費や教育政策への不満が高まり、一部の地域では学校を襲撃したり、校舎を破壊したりする事件も発生しました。

こうした動きは、学制反対一揆などと呼ばれることがあります。

ただし、反発の理由は学校教育そのものへの反対だけではありません。学校建設費や授業料などの経済的負担、ほかの政策への不満が重なっていた点に注意が必要です。

6.学制はなぜ廃止され、教育令に変わったのか?

学制は全国に近代的な学校制度を広げるための重要な出発点でしたが、実施上の問題が多く、制度の見直しが進められました。

全国一律の制度を維持することが難しかった

学制は、欧米の教育制度を参考にして全国共通の学校制度を整えることを目指していました。

しかし、地域によって人口や財政状況、教育への需要は異なります。

学校を建設する費用を十分に確保できない地域では、制度どおりに学校を設置することが困難でした。

また、就学率も政府が期待したようには上昇せず、全国一律の仕組みを見直す必要が生じました。

1879年に教育令が公布された

1879年、明治政府は学制に代わる教育制度として「教育令」を公布しました。

教育令では、学制の学区制を廃止し、町村を小学校設置の単位とするなど、地方の実情を反映しやすい仕組みへ変更しました。

学校運営についても、地域の事情を踏まえた柔軟な対応を目指しました。

これは、全国一律の制度をそのまま実施することが難しかったため、地方の裁量を広げようとした改革でした。

1880年には教育令が改正された

しかし、地方に権限を委ねたことで、財政難を理由に学校の建設が中止されたり、学校が廃止されたりする問題も発生しました。

就学率も十分に上昇しなかったため、政府は翌1880年に教育令を改正しました。

改正教育令では、文部省による統制が強められ、地方に任せるだけではなく、政府が全国の教育制度を管理する方向へと転換しました。

7.学制の制定は日本の教育をどう変えたのか?

学制は1879年に廃止されましたが、その後の日本の教育制度に大きな影響を与えました。

全国に学校を設置する考え方が広がった

学制によって、全国民を対象とする学校制度を整備するという方針が明確になりました。

実施には多くの問題がありましたが、全国各地に小学校を設置し、教育を普及させるという方向性は、その後も引き継がれていきます。

1886年の学校令で近代学校制度が整備された

1886年には、初代文部大臣の森有礼のもとで、帝国大学令・師範学校令・中学校令・小学校令などが公布されました。

これによって、学校の種類や役割が整理され、近代日本の学校制度の基礎が整えられていきました。

学制が掲げた全国的な教育制度の構想は、その後の制度改革を通じて具体化していったのです。

義務教育制度も段階的に整備された

学制の時点で、現在のような義務教育制度が完成していたわけではありません。

1886年の小学校令によって、保護者が子どもを小学校に就学させる義務を負う制度が整えられました。

その後、1900年には授業料を徴収しない制度が広がり、1907年には義務教育の年限が6年に延長されました。

現在につながる学校教育の仕組みは、学制の公布だけで完成したのではなく、長い時間をかけて整えられていったのです。

8.学制は明治維新のなかでなぜ重要だったのか?

学制は、明治政府が進めた近代国家づくりの重要な改革の一つでした。

廃藩置県によって中央集権体制を整え、徴兵令によって国民から兵士を集める仕組みをつくり、地租改正によって安定した税収を確保する。

そして学制によって、近代国家を支える知識や能力を持った人材を育てようとしました。

つまり、明治政府は政治・軍事・財政だけでなく、教育の面からも日本を近代化しようとしていたのです。

一方で、教育の普及には地域住民の費用負担や家庭の事情など、さまざまな問題がありました。

学制への反発は、政府の理想と人々の生活との間に大きな隔たりがあったことを示しています。

まとめ:学制は全国民を対象とする近代教育制度の出発点だった

学制は、1872年に明治政府が公布した、日本初の近代的な学校制度に関する基本法令です。

  • 1871年に文部省が設置され、全国的な教育制度の整備が始まった。
  • 1872年8月2日に学制が公布された。
  • 欧米の教育制度を参考に、全国共通の学校制度をつくろうとした。
  • 身分や男女の違いにかかわらず、広く教育を普及させることを目指した。
  • 全国を大学区・中学区・小学区に分ける制度を構想した。
  • 学校建設費や授業料などの負担が、地域住民や家庭の問題となった。
  • 学校建設費や教育政策への不満から、各地で反対運動や学校襲撃が発生した。
  • 1879年に教育令が公布され、学制は廃止された。
  • 1886年の学校令などを通じて、近代的な学校制度がさらに整備された。

学制は、公布された時点ですぐに全国民が学校へ通えるようになった制度ではありませんでした。学校の建設費や授業料、教師不足など、多くの課題を抱えていました。

それでも、教育を一部の人々だけのものではなく、全国民に広げようとした点で、日本の教育史における大きな転換点となりました。

明治政府が目指した近代国家は、軍隊や産業、行政制度だけで成り立つものではありません。国を支える人材を育てる教育制度もまた、その重要な土台だったのです。

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