箱館戦争はなぜ起きたのか?榎本武揚と土方歳三が戦った戊辰戦争最後の戦いを解説
1868年、戊辰戦争の戦火は東北地方から北海道へと広がりました。その最後の舞台となったのが、現在の北海道函館市周辺で繰り広げられた箱館戦争です。
旧幕府海軍の副総裁だった榎本武揚は、江戸城が新政府に明け渡された後も艦隊の引き渡しを拒み、旧幕府軍の将兵を率いて蝦夷地へ渡りました。五稜郭を占拠すると、旧幕府側の人材を集めて新たな政権を樹立します。
この戦いには、新選組副長として知られる土方歳三も参加しました。土方は各地で新政府軍と戦い、最後まで抵抗を続けましたが、1869年に戦死します。
なぜ榎本武揚は北海道へ渡ったのでしょうか。五稜郭を拠点とした政権はどのように成立し、なぜ新政府軍に敗れたのでしょうか。
箱館戦争の背景から、蝦夷地政権の成立、土方歳三の最期、五稜郭の降伏までを解説します。
1.箱館戦争とは何だったのか?
箱館戦争とは、1868年から1869年にかけて、蝦夷地(現在の北海道)で旧幕府軍と新政府軍が戦った戊辰戦争最後の戦いです。
旧幕府軍を率いた中心人物は、旧幕府海軍副総裁の榎本武揚でした。榎本は旧幕府の艦隊を率いて蝦夷地へ渡り、五稜郭を占拠します。
その後、旧幕府側の将兵や旧幕臣を中心とする政権が成立し、新政府軍との対決が続きました。
箱館戦争には、榎本武揚のほか、大鳥圭介、松平太郎、土方歳三などが参加しました。旧幕府軍には陸軍・海軍の将兵だけでなく、フランス軍事顧問団に所属していたジュール・ブリュネら外国人も加わっていました。
1869年5月、五稜郭が新政府軍に包囲され、旧幕府軍は降伏します。これによって戊辰戦争は終結しました。
2.榎本武揚はなぜ蝦夷地へ渡ったのか?
箱館戦争が起きた直接のきっかけは、旧幕府海軍副総裁だった榎本武揚が、旧幕府艦隊を率いて江戸を離れたことでした。
榎本武揚は旧幕府海軍の中心人物だった
榎本武揚は1836年に江戸で生まれた幕臣です。若い頃から蘭学や航海術を学び、幕府の海軍を担う人材として成長しました。
1862年には幕府の留学生としてオランダへ渡り、造船や航海術、国際法などを学びました。
帰国後は幕府海軍で重要な役割を担い、戊辰戦争が始まる頃には海軍副総裁となっていました。
榎本は西洋の軍事技術や国際情勢に詳しく、旧幕府側のなかでも近代的な知識を持つ人物でした。
江戸城開城後も艦隊の引き渡しを拒んだ
1868年4月、江戸城は新政府軍に引き渡されました。
旧幕府側の多くの勢力が恭順や降伏へと向かうなか、榎本武揚は旧幕府海軍の艦隊を新政府に引き渡すことに反対しました。
榎本には、旧幕府の艦隊を新政府に渡すことへの抵抗感だけでなく、旧幕府側の将兵を保護し、彼らが新しい生活や活動の場を得られるようにしたいという考えもあったとされています。
さらに、蝦夷地の開拓や防衛に旧幕臣の能力を生かす構想もありました。
1868年8月、旧幕府艦隊が品川沖を脱出
榎本武揚は旧幕府艦隊を率いて品川沖を離れ、北へ向かいました。
艦隊には開陽丸などの軍艦が含まれ、旧幕府陸軍の将兵も乗り込んでいました。
途中で暴風雨に遭い、艦船の一部を失うなどの困難に直面しましたが、艦隊は仙台方面へ向かいます。
仙台では、東北各地で敗れた旧幕府側の将兵などと合流しました。
その後、榎本は蝦夷地へ向かうことを決断します。こうして箱館戦争の舞台が北海道へ移ることになりました。
3.旧幕府軍はなぜ五稜郭を目指したのか?
榎本武揚が蝦夷地の拠点として選んだのが、箱館にある五稜郭でした。
五稜郭は幕府が築いた洋式城郭だった
五稜郭は、江戸幕府が箱館の防衛と行政の拠点として築いた洋式城郭です。
1857年に築造が始まり、1864年に完成しました。設計には蘭学者の武田斐三郎が関わっています。
五稜郭は星形の平城で、五つの突角を持つ独特の形状が特徴です。ヨーロッパの築城技術を取り入れ、周囲には堀が設けられていました。
幕末には箱館奉行所が置かれ、蝦夷地の行政を担う施設として使われていました。
蝦夷地は旧幕府軍にとって新たな拠点になり得た
蝦夷地は本州から海を隔てた北方にあり、旧幕府軍にとって新しい活動拠点を築く余地がありました。
また、箱館には港があり、海外との交易や海軍の運用にも適した立地でした。
榎本武揚は、旧幕臣や将兵の力を生かしながら、蝦夷地の開拓や防衛を進めることを構想していました。
ただし、蝦夷地へ渡った目的を単純に「独立国家をつくるため」と断定することはできません。旧幕臣の保護、開拓、防衛、政治的な活動の継続など、複数の目的が重なっていたと考えられます。
4.旧幕府軍はどのように五稜郭を占拠したのか?
榎本武揚率いる旧幕府軍は、1868年10月20日(旧暦)、現在の北海道森町にある鷲ノ木へ上陸しました。
鷲ノ木から箱館へ進軍した
旧幕府軍は鷲ノ木に上陸すると、部隊を分けて箱館方面へ進軍しました。
大鳥圭介が率いる部隊などは陸路を進み、峠下などで箱館府側の部隊と戦います。
旧幕府軍は各地で勝利し、箱館府側の防衛部隊を退けながら五稜郭へ迫りました。
10月26日、五稜郭を占拠
箱館府知事の清水谷公考は、旧幕府軍の進撃を受けて箱館から退却しました。
その結果、五稜郭はほぼ無人の状態となり、旧幕府軍が占拠します。
旧幕府軍は五稜郭を本拠地とし、箱館周辺の支配を進めました。
さらに松前方面にも進軍し、松前藩などの勢力を退けて蝦夷地南部の各地を制圧していきます。
5.蝦夷地政権はなぜ成立したのか?
五稜郭を占拠した旧幕府軍は、単に軍事拠点を確保するだけでなく、蝦夷地を統治するための政権をつくろうとしました。
旧幕臣を中心に政権の仕組みを整えた
旧幕府軍には、榎本武揚や大鳥圭介、松平太郎など、幕府時代に行政や軍事を担っていた人材が参加していました。
彼らは五稜郭を中心に行政機構を整え、蝦夷地を統治するための仕組みをつくります。
1868年12月(旧暦では明治元年12月)、政権の首脳を選ぶ選挙が行われ、榎本武揚が総裁に選ばれました。
この政権は一般に「蝦夷共和国」と呼ばれますが、当時の正式な国名や国際的な承認を得た独立国家だったわけではありません。旧幕府軍が蝦夷地に設けた政権を、後世にそう呼ぶことが多いのです。
榎本武揚は新政府との共存も模索していた
榎本武揚は、蝦夷地での政権運営を進める一方、新政府との全面的な対決を避ける道も探っていました。
蝦夷地の開拓や防衛を担うことを提案し、旧幕臣たちの活動の場を認めてもらおうとしたのです。
しかし、新政府は旧幕府軍が蝦夷地に独自の政権を築くことを認めませんでした。
新政府にとって、全国の統一を進めるうえで、旧幕府軍が独自の軍事・政治勢力として存続することは容認できなかったのです。
こうして両者の対立は避けられなくなっていきました。
6.土方歳三はなぜ箱館戦争に参加したのか?
箱館戦争には、新選組副長として知られる土方歳三も参加していました。
新選組は戊辰戦争で旧幕府側として戦った
土方歳三は、近藤勇らとともに新選組を結成し、京都の治安維持などに関わった人物です。
鳥羽・伏見の戦いで旧幕府軍が敗れた後も、土方は旧幕府側の部隊とともに各地を転戦しました。
江戸に戻った後も戦いを続け、宇都宮や会津などで新政府軍と戦っています。
しかし、東北地方で旧幕府側の勢力が次々と降伏すると、土方は榎本武揚らと行動をともにするようになりました。
土方歳三は旧幕府軍の陸軍指揮官として活躍した
蝦夷地へ渡った土方は、旧幕府軍の陸軍指揮官の一人として各地の戦闘に参加しました。
松前方面への進軍や、箱館周辺の防衛などに関わり、旧幕府軍のなかでも重要な役割を担いました。
新選組の副長として知られる土方ですが、箱館戦争では一部隊の指揮官としてだけでなく、旧幕府軍全体の軍事行動に関わる立場にありました。
土方は、旧幕府軍が敗北していくなかでも戦いを続け、最後まで抵抗することになります。
7.箱館戦争ではどのような戦いが行われたのか?
旧幕府軍は五稜郭を占拠した後、松前や江差方面へ進軍し、蝦夷地南部の支配を進めました。
松前城を攻略した
旧幕府軍は松前藩の本拠地である松前城を攻撃しました。
土方歳三らが率いる部隊も松前方面の戦闘に参加し、旧幕府軍は松前城を攻略します。
これによって旧幕府軍は、蝦夷地南部における支配地域を広げました。
開陽丸の喪失が大きな打撃となった
旧幕府軍にとって大きな痛手となったのが、主力艦である開陽丸の喪失でした。
開陽丸はオランダで建造された当時の高性能な軍艦で、榎本武揚の艦隊の中心を担っていました。
しかし、1868年11月、江差沖で暴風に遭い、座礁・沈没してしまいます。
開陽丸を失ったことで、旧幕府軍の海軍力は大きく低下しました。
新政府軍との海上戦を考えるうえでも、開陽丸の喪失は深刻な問題となりました。
8.新政府軍はなぜ箱館へ攻め込んだのか?
蝦夷地で旧幕府軍の政権が成立すると、新政府はこれを排除するための軍事行動を準備しました。
新政府は全国統一を進めていた
1868年から1869年にかけて、新政府は東北地方の諸藩を制圧し、旧幕府側の主要な抵抗勢力を降伏させていきました。
しかし、榎本武揚らが蝦夷地で独自の政権を築いたため、戊辰戦争はまだ終わっていませんでした。
新政府にとって、蝦夷地の旧幕府軍を放置すれば、国内に別の政治・軍事勢力が存続することになります。
そのため、新政府は海軍と陸軍を動員して蝦夷地への攻撃を計画しました。
1869年4月、新政府軍が北海道へ上陸
1869年4月、新政府軍は北海道南部の乙部方面に上陸しました。
新政府軍は海陸から旧幕府軍を攻撃し、松前方面や箱館周辺で戦闘を繰り広げます。
旧幕府軍は各地で抵抗しましたが、新政府軍の攻勢を食い止めることはできませんでした。
戦況は次第に新政府軍に有利となり、旧幕府軍は五稜郭周辺へと追い込まれていきます。
9.土方歳三はなぜ戦死したのか?
箱館戦争の最終局面で、旧幕府軍にとって大きな損失となったのが土方歳三の戦死でした。
新政府軍は箱館市街へ進撃した
1869年5月、新政府軍は箱館への総攻撃を開始しました。
陸上部隊が各地から進撃し、海軍も艦砲射撃によって旧幕府軍の拠点を攻撃しました。
旧幕府軍は弁天台場や五稜郭などで抵抗を続けましたが、次第に防衛線を維持できなくなっていきます。
1869年5月11日、土方歳三が戦死
1869年5月11日、土方歳三は箱館市街の一本木関門付近で戦死しました。
新政府軍が箱館市街へ進撃するなか、土方は旧幕府軍の部隊を率いて戦っていました。
その最期については、一本木関門付近で銃弾を受けたと伝えられています。
享年34。京都で新選組の副長として活動し、戊辰戦争では各地を転戦した土方歳三は、箱館の地で生涯を終えました。
土方の死は、旧幕府軍にとって精神的にも軍事的にも大きな打撃となりました。
10.五稜郭はなぜ降伏したのか?
土方歳三の戦死後も、旧幕府軍は五稜郭や弁天台場などで抵抗を続けました。しかし、戦況はすでに決定的になっていました。
新政府軍の総攻撃で防衛拠点が次々と失われた
新政府軍は箱館市街を制圧し、旧幕府軍の各拠点を攻撃しました。
弁天台場などの拠点も孤立し、旧幕府軍は十分な連携を維持できなくなります。
海上でも新政府軍が優勢となり、旧幕府軍は補給や移動の面でも厳しい状況に追い込まれました。
榎本武揚は降伏を決断した
榎本武揚は、最後まで抵抗を続けることが難しいと判断しました。
五稜郭に残る将兵や市民の被害をこれ以上拡大させないためにも、降伏を選択する必要があったのです。
榎本は降伏に際して、オランダ留学中に得た貴重な海事関係の書籍を新政府側に託したという逸話でも知られています。戦争に敗れた後も、国家の将来に役立つ知識を残そうとした人物像を伝える話です。
1869年5月18日、五稜郭が開城
1869年5月18日(旧暦)、榎本武揚ら旧幕府軍は降伏し、五稜郭を新政府軍に明け渡しました。
新暦では6月27日にあたります。
これによって箱館戦争は終結し、鳥羽・伏見の戦いから始まった戊辰戦争も終わりを迎えました。
11.箱館戦争の後、榎本武揚はどうなったのか?
箱館戦争に敗れた榎本武揚は、新政府に降伏した後、投獄されました。
榎本武揚は投獄された
榎本は旧幕府軍の指導者として戦ったため、戦争後は責任を問われ、東京で投獄されました。
しかし、榎本が持つ国際法や海軍、外交に関する知識は、新政府にとっても貴重なものでした。
そのため、旧幕府軍の指導者であったことだけを理由に、能力を無視することはできませんでした。
明治政府で重要な役職を歴任した
榎本武揚は後に赦免され、明治政府に登用されました。
海軍や外交に関する知識を生かし、北海道開拓使の仕事にも関わります。その後、駐露公使、外務大臣、逓信大臣、農商務大臣などを歴任しました。
かつて新政府軍と戦った人物が、明治政府の中枢で活躍することになったのです。
榎本の生涯は、戊辰戦争後の新政府が旧幕府側の人材も取り込みながら、近代国家を築いていったことを示しています。
12.箱館戦争が日本の歴史に与えた影響
箱館戦争は、戊辰戦争の最終局面であり、旧幕府勢力による組織的な抵抗が終わった出来事でした。
鳥羽・伏見の戦いから始まった戊辰戦争は、江戸、東北、北越、北海道へと戦場を移しながら続きました。
会津藩や奥羽越列藩同盟が敗れた後も、榎本武揚らは蝦夷地に新たな政権を築いて抵抗を続けました。しかし、最終的には新政府軍の軍事力の前に降伏します。
箱館戦争の終結によって、新政府は国内に残る大規模な軍事的抵抗勢力を制圧しました。これにより、明治政府による全国統一と近代国家づくりが本格的に進んでいきます。
一方、旧幕府側で戦った榎本武揚のように、新政府に登用されて近代日本の発展に貢献した人物もいました。
箱館戦争は、旧幕府と新政府の戦いに終止符を打つとともに、明治という新しい時代の始まりを象徴する出来事だったのです。
まとめ:箱館戦争は戊辰戦争最後の戦いだった
箱館戦争は、榎本武揚が旧幕府艦隊を率いて蝦夷地へ渡り、五稜郭を拠点に新政府軍へ抵抗した戦いです。
- 江戸城開城後、榎本武揚は旧幕府艦隊の引き渡しを拒んだ。
- 1868年8月、榎本は旧幕府艦隊を率いて品川沖を脱出した。
- 10月20日、旧幕府軍は蝦夷地の鷲ノ木に上陸した。
- 10月26日、旧幕府軍は五稜郭を占拠した。
- 12月、榎本武揚を総裁とする蝦夷地政権が成立した。
- 土方歳三は旧幕府軍の指揮官として各地の戦闘に参加した。
- 1869年4月、新政府軍が北海道へ上陸し、反撃を開始した。
- 5月11日、土方歳三が箱館市街で戦死した。
- 5月18日(旧暦)、榎本武揚らが降伏し、五稜郭が開城した。
箱館戦争は、旧幕府側が最後まで抵抗した戊辰戦争最後の戦いでした。榎本武揚は蝦夷地に新たな政権を築こうとしましたが、新政府軍の攻撃によってその試みは終わります。
一方、土方歳三は最後まで戦場に立ち、箱館で命を落としました。榎本武揚は降伏後に明治政府で活躍し、旧幕府側の人材が新しい国家づくりに参加することになります。
こうして戊辰戦争は終結し、日本は明治という新しい時代へ本格的に進んでいきました。
コメント