第一次長州征討はなぜ行われたのか?幕府が長州藩を追討した理由と三家老の処分、藩内対立を解説
幕末の長州藩は、1864年の禁門の変で敗れたことをきっかけに、幕府から追討の対象となりました。幕府は全国の諸藩に出兵を命じ、大規模な軍勢を長州へ向かわせます。これが「第一次長州征討」です。
しかし、第一次長州征討では、幕府軍と長州藩の間で本格的な戦闘は起きませんでした。長州藩が幕府への恭順を示し、禁門の変に関わった三家老を切腹させるなどの処分を行ったため、幕府側が撤兵したのです。
一見すると長州藩が敗北を認めて終わったように見えますが、この処分は藩内に新たな対立を生みました。やがて高杉晋作らが挙兵し、長州藩は再び幕府と戦う道を選ぶことになります。
なぜ幕府は長州藩を征討しようとしたのでしょうか。なぜ大軍を動員しながら戦闘を避けたのでしょうか。そして、第一次長州征討は、その後の倒幕運動にどのような影響を与えたのでしょうか。
1. 第一次長州征討とは?幕府が長州藩に処分を求めた軍事行動
第一次長州征討とは、1864年(元治元年)に幕府が諸藩を動員し、禁門の変で朝廷に敵対したとされた長州藩に対して行った軍事行動です。
禁門の変では、長州藩の兵が京都御所周辺で会津藩や薩摩藩などと戦いました。長州藩は敗北し、朝廷から追討の対象とされます。
幕府は朝廷の命を受けて長州藩の処分を進めるため、諸藩に出兵を命じました。征討軍の総督には尾張藩主徳川慶勝が任命され、西国の諸藩を中心に大規模な軍勢が集められます。
征討軍は広島方面に集結し、長州藩との交渉や軍事的な圧力を進めました。しかし、長州藩が謝罪と恭順の姿勢を示したため、最終的に本格的な戦闘は行われずに終わりました。
第一次長州征討は、長州藩を軍事的に攻め滅ぼした戦争ではなく、軍事力を背景に長州藩へ政治的な処分を受け入れさせた出来事だったのです。
2. なぜ幕府は長州藩を征討しようとしたのか?
禁門の変で長州藩が朝廷と敵対したとみなされた
第一次長州征討の直接的な原因は、1864年の禁門の変です。
長州藩は、八月十八日の政変によって京都での政治的な立場を失っていました。さらに池田屋事件などを経て、京都への復帰を求める強硬派の意見が強まり、ついに兵を率いて上洛します。
しかし、会津藩や薩摩藩などの軍勢に敗れ、御所周辺での戦闘は長州藩の大敗に終わりました。
御所に向けて兵を進め、朝廷側の軍勢と戦ったことから、長州藩は朝敵とみなされます。朝廷は長州藩追討の方針を示し、幕府に対応を求めました。
幕府は朝廷の権威を守る必要があった
幕府にとって、長州藩を放置することは政治的に難しい問題でした。
禁門の変で朝廷に敵対したとされた長州藩を処分しなければ、幕府が朝廷の権威を守れないという批判を受ける可能性があったからです。
また、幕府は長州藩の軍事行動を抑えることで、幕府の命令に従わない諸藩への牽制を図る狙いもありました。
幕府は全国の諸藩に出兵を命じ、長州藩に対して強い圧力をかけることになります。
3. 第一次長州征討の総督は誰だったのか?徳川慶勝と西郷隆盛
総督に任命された徳川慶勝
第一次長州征討の総督に任命されたのは、尾張藩の前藩主である徳川慶勝です。
徳川慶勝は、御三家の一つである尾張徳川家の出身で、幕府や朝廷との関係にも影響力を持つ人物でした。
幕府は有力な徳川一門の人物を総督に据えることで、征討の正当性を高め、諸藩をまとめようとしました。
征討軍には西国の諸藩を中心に多くの兵が参加し、広島が軍事行動の拠点となりました。
西郷隆盛はなぜ戦闘を避けようとしたのか?
征討軍の参謀として重要な役割を果たしたのが、薩摩藩の西郷隆盛です。
西郷は、長州藩を徹底的に攻撃して壊滅させることには慎重でした。大規模な戦争になれば、多くの犠牲が出るだけでなく、幕府や諸藩の負担も大きくなるからです。
また、薩摩藩には、長州藩を弱体化させながら幕府の権威回復も防ぎたいという政治的な思惑がありました。
西郷は長州藩の支藩である岩国領の吉川経幹らを通じて恭順を促し、武力衝突を避ける方向で交渉を進めました。
結果として、長州藩が処分を受け入れたことで、征討軍は大規模な戦闘を行わずに撤兵することになります。
4. 長州藩はなぜ幕府に恭順したのか?
禁門の変と下関戦争で大きな打撃を受けていた
長州藩が恭順を選んだ背景には、1864年に相次いで起きた軍事的な敗北がありました。
まず、7月の禁門の変で長州藩は京都で大敗し、久坂玄瑞や来島又兵衛ら多くの志士を失いました。
さらに8月には、アメリカ・イギリス・フランス・オランダの四国連合艦隊が下関を攻撃しました。長州藩は近代的な軍艦や兵器を持つ外国勢力の圧倒的な軍事力を目の当たりにします。
京都での敗北に続いて外国艦隊にも攻撃されたことで、長州藩は軍事的にも財政的にも厳しい状況に追い込まれました。
藩内で恭順派が主導権を握った
長州藩内では、幕府との戦争を避けるべきだとする恭順派が勢力を強めました。
藩を守るためには、幕府の要求を受け入れて謝罪し、禁門の変の責任者を処分するしかないという考え方です。
一方、尊王攘夷を掲げてきた強硬派には、幕府に屈することへの反発がありました。
しかし、禁門の変と下関戦争によって藩の軍事力が弱まり、幕府の大軍が迫る状況では、戦争を避けるべきだという意見が優勢となりました。
5. 長州藩はどのような処分を受け入れたのか?三家老の切腹
第一次長州征討を終結させるため、長州藩は幕府側の要求を受け入れ、複数の処分を行いました。
特に重要だったのが、禁門の変で軍勢を率いた三家老の切腹です。
- 福原越後:禁門の変で長州藩の部隊を率いた家老。
- 益田右衛門介(益田親施):長州藩の家老で、京都への出兵に関わった人物。
- 国司信濃:長州藩の家老で、禁門の変における部隊指揮に関わった人物。
この三人は禁門の変の責任を問われ、切腹を命じられました。
長州藩は三家老の処分によって、禁門の変を起こした責任を認める姿勢を示します。
また、藩主の毛利敬親と世子の毛利定広も謝罪と謹慎の姿勢を示しました。さらに、山口城の破却なども処分の条件に含まれました。
こうした対応によって、幕府側は長州藩が恭順したと判断し、征討軍の撤兵へと進みます。
6. 第一次長州征討はなぜ戦闘にならずに終わったのか?
第一次長州征討では、幕府側が大規模な軍勢を動員したにもかかわらず、本格的な戦闘は起きませんでした。
その理由は、幕府側にも長期戦を避けたい事情があったからです。
諸藩にとっても大規模な出兵は負担だった
征討軍に参加した諸藩にとって、長州藩との戦争は大きな負担でした。
兵士や武器を準備し、遠方まで軍勢を移動させるには、多額の費用が必要です。各藩は自国の財政や国内の事情も抱えており、長期にわたる戦争を望んでいたわけではありません。
長州藩が処分を受け入れるならば、戦闘を行わずに目的を達成する方が合理的でした。
徳川慶勝と西郷隆盛が妥協による解決を進めた
総督の徳川慶勝や参謀の西郷隆盛らは、長州藩との交渉を進め、戦争を避ける方向で対応しました。
長州藩が三家老の切腹などの処分を実行したことで、幕府側は一定の成果を得たと判断します。
そして1864年12月、征討軍に撤兵が命じられました。
こうして第一次長州征討は、長州藩の恭順と処分をもって終結したのです。
7. 第一次長州征討の後、長州藩では何が起きたのか?
恭順派の「俗論派」が藩政を主導した
第一次長州征討の後、長州藩では幕府への恭順を重視する勢力が主導権を握りました。
この勢力は、後に「俗論派」と呼ばれます。俗論派は、幕府との戦争を避けるため、禁門の変に関わった人物や尊王攘夷派への処分を進めました。
しかし、藩内には幕府への恭順を不満とする人々も残っていました。特に、高杉晋作らは、幕府に従うだけでは長州藩の将来を守れないと考えていました。
高杉晋作が功山寺で挙兵する
高杉晋作は、長州藩の方針を変えるため、1864年12月15日に下関で挙兵しました。
高杉は奇兵隊などの諸隊を味方につけ、藩政府の俗論派に対抗します。
当初は少数の兵力でしたが、伊藤俊輔(後の伊藤博文)らも加わり、各地で戦闘を続けました。
この挙兵は「功山寺挙兵」と呼ばれ、長州藩の政治を大きく変えるきっかけとなります。
大田・絵堂の戦いで正義派が勝利する
高杉晋作らの挙兵をきっかけに、長州藩では俗論派と正義派の内戦が起こります。
1865年には大田・絵堂の戦いが行われ、諸隊を中心とする正義派が藩政府軍を破りました。
その結果、俗論派は主導権を失い、正義派が藩政を握ります。
長州藩は幕府に対して表向きは恭順の姿勢を示しながら、攻撃を受けた場合には武力で対抗する「武備恭順」へと方針を転換しました。
8. 第一次長州征討は第二次長州征討にどうつながったのか?
第一次長州征討は、長州藩が恭順したことで戦闘を避けて終結しました。しかし、幕府と長州藩の対立が完全に解決したわけではありません。
長州藩は藩内改革を進め、軍備を整え始めます。一方、幕府は長州藩が十分に処分を受け入れていないと考え、再び長州藩への圧力を強めました。
特に、三条実美ら五卿の引き渡しなど、幕府が求めた条件の一部は実現しませんでした。
さらに、長州藩では高杉晋作らが藩政を掌握し、幕府に対抗する姿勢を強めていきます。
こうして幕府と長州藩の緊張は再び高まり、1866年には第二次長州征討が始まります。
第一次長州征討が武力衝突を避けて終わったことは、問題の解決というよりも、次の大きな戦争までの一時的な休戦に近いものでした。
9. 第一次長州征討は幕末の歴史にどのような影響を与えたのか?
第一次長州征討は、幕府と長州藩の関係を決定的に変える出来事となりました。
長州藩は一度は幕府に恭順しましたが、藩内で高杉晋作らが主導権を握ると、軍事力を整えて幕府との対決に備えるようになります。
また、薩摩藩の西郷隆盛が長州藩への徹底的な攻撃を避けたことも、その後の政治情勢を考えるうえで重要です。
当初は敵対していた薩摩藩と長州藩でしたが、幕府の政治に対する不満や新しい政治体制を求める動きが強まるにつれ、両藩の関係は変化していきます。
1866年には坂本龍馬らの仲介によって薩長同盟が成立し、両藩は幕府に対抗する協力関係を築きました。
第一次長州征討で幕府が長州藩を完全に屈服させられなかったことは、幕府の権威が次第に弱まっていく過程の一つでもあったのです。
まとめ:第一次長州征討は戦わずして終わったが、長州藩の再起につながった
第一次長州征討は、1864年に幕府が禁門の変で朝敵とされた長州藩を処分するため、諸藩を動員して行った軍事行動です。
長州藩は禁門の変と四国連合艦隊による下関砲撃で大きな打撃を受け、藩内では恭順派が主導権を握りました。そして、三家老の切腹や藩主父子の謝罪などを通じて、幕府への恭順を示します。
その結果、征討軍は本格的な戦闘を行わず、1864年12月に撤兵しました。
しかし、長州藩内では恭順派への反発が強まり、高杉晋作らが功山寺で挙兵します。大田・絵堂の戦いを経て正義派が藩政を握り、長州藩は再び幕府との対決に備えるようになりました。
第一次長州征討は、幕府が長州藩を一時的に屈服させた出来事であると同時に、長州藩が軍事改革を進め、倒幕運動の中心勢力へと成長する転機でもあったのです。
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