前回は藤原氏は他の氏と戦っていましたね。
今回はなんと天皇と戦います。
基本的には藤原氏と天皇は協力しあう関係性ですが、時として両者はぶつかりました。
その様子をご覧ください。それでは本題に入ります。
政治がやりたい藤原氏VS政治がやりたい天皇
藤原氏は基本的に政治がしたいのです。
でなければ一族が衰退してしまうので。
一方の天皇側は別に政治を任せてしまってもそんなに自身や身内に悪影響はないんですよね。
というわけで基本的には天皇は摂政や関白に政治を任せます。
ところが「自分で政治やりたい」という天皇ももちろんいるわけです。
そこで対立が起こってしまうというケースも多いんです。
それでは具体的なケースを見ていきましょう。
藤原良房(よしふさ)
藤原冬嗣(ふゆつぐ)の子供です。
彼の時の天皇は清和天皇と陽成(ようぜい)天皇だったのですが、彼らは藤原氏に政治を託してくれました。
そして良房は一族で初めての摂政となります。清和天皇の摂政としてです。
藤原基経(もとつね)VS宇多(うだ)天皇
次の藤原氏側の氏長者は藤原基経です。対する天皇側は宇多天皇です。
宇多天皇は政治を自分で行いたいという人でした。
ここからバトルが始まります!
権力を握りたい基経と自分でバリバリ政治がしたい「宇多天皇」との衝突。
どうなってしまうかというと…阿衡の紛議(あこうの ふんぎ)(阿衡事件)という事件に発展してしまいます。
阿衡の紛議
内容としては、宇多天皇が基経を要職から外したことにより基経から猛抗議をされた事件です。
宇多天皇はこの後この命令を撤回し、なんとか事なきを得ます。
でもこの時点で天皇でさえ藤原氏の機嫌を取らざるを得ないほどに藤原氏は権力を持っていたことが分かりますよね。恐ろしい。
というわけでここからしばらくは基経が政治を行っていきます。
その結果、基経は一族で初の関白になります。
宇多天皇の政治
というわけで宇多天皇が政治をできるようになったのは基経が亡くなった後でした。
こっから宇多天皇は頑張ります。
宇多天皇は菅原道真(すがわらの みちざね)を重役として政治を行っていきました。
やったことは
の2つです。
宇多天皇は菅原道真の進言により遣唐使を廃止しました。
また、滝口の武者と呼ばれる警備を置き、皇族の軍事力を高めていきました。
藤原時平(ときひら)VS醍醐天皇
まだ未成年であった醍醐天皇は藤原時平にそそのかされて菅原道真を左遷してしまいました。
これを昌泰の変(しょうたいの へん)といいます。
延喜・天暦の治(醍醐・村上天皇の政治)
ここでも天皇が直接政治を運営していきました。このような政治の運営の仕方を親政といいます。
それではこの二人が実際どんなことをやったのか見ていきましょう。
延喜の治(醍醐)・天暦の治(村上)でやったこと
延喜の治で醍醐(だいご)天皇がやったことは
の3つです。
天暦の治で村上天皇がやったことは
- 乾元大宝(けんげん たいほう)の鋳造
の一つだけ。本朝十二銭(ほんちょう じゅうにせん)の最後のやつです。
延喜・天暦の治についてはこちらの記事に詳しく書いてあります。また、本朝十二銭をもっと詳しく知りたい方はこちらをどうぞ。
最後に
藤原氏全体の流れが知りたい方はコチラ。

この時流行した文化である国風文化についてはコチラ。

いかがだったでしょうか?
次の記事では、藤原氏が一強状態の摂関政治時代を書いていきます。こちらです。
ここでは天皇は出てこないんですが、藤原氏で流れをつかんでいきます。
みんな苦戦する文化史の勉強法についてはこちら。
そして日本史の文化全体を幅広くまとめたおトクな記事はこちら。
今回の記事は以上です。ご覧いただきありがとうございました。
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