こんにちは。
今回はこんなテーマでやっていきます。
生きていくうえではやはりルールは守るべきですし、規範はしっかりやるべきです。しかしそれが行き過ぎるとどうなってしまうのか。今回はそんなお話です。
誰がやった?
松平定信という人がやりました。徳川家康の元の姓は松平といったんですが、松平定信は徳川家の親戚です。
将軍的には11代の徳川家斉の時です。田沼政治が10代だったので寛政の改革は田沼政治のすぐ直後だったことが分かります。将軍を覚えておくと順番に迷ったときにちょっと便利かもです。
寛政異学の禁
吉宗がやったことの真逆をやっていきます。それが寛政異学の禁。
洋書の輸入は再禁止。蘭学も禁止され、朱子学以外の学問を禁じました。朱子学というのは身分を重んじる学問で統治する側の立場にとっては都合の良い学問でした。
そして朱子学の学校として昌平坂(しょうへいざか)学問所を創設します。
林子平(はやししへい)を処罰
海国兵談という本で幕府批判を行った林子平という人を処罰します。この人の苗字は林ですが、彼も林羅山や信篤といったいわゆる林家の一人でした。
子平はほかにも三国通覧図説という本を書いていたりします。
文学統制
この場合の文学統制というのは18禁的な文学に対してが多いです。
- 恋川春町:黄表紙というジャンルの作者
- 山東京伝:洒落本というジャンルの作者
を処罰。覚え方は2kと2sですね。それぞれの頭文字からとっています。
そして
- 蔦屋重三郎:黄表紙と洒落本の出版元
の財産の半分を没収しました。
囲米の制(かこいまい)
このころは飢饉が多く、社会問題といったレベルではなくマズイ問題となっていました。
ということで町ごとに備蓄を命じたのがこの囲米制。貯めたお米は社倉と呼ばれる倉庫に備蓄されました。
旧里帰農令
このころは「もともと農民だった人が仕事がなくて都会に行く」というケースが多くなっていて都会にいる人が異常に多くなってました。それによる問題(食糧不足など)もいっぱいあったんです。
というわけで定信はそういった人たちにもとの農村に帰ることを奨励していきます。
この奨励というのがポイントで後の天保の改革では強制的に帰らせます。このころはあくまで推奨。
棄捐令(きえんれい)
簡単に言うと困窮していた武士の借金をなくした令です。
でもこれ、鎌倉時代の徳政令と一緒ですよね?徳政令の時は武士の生活がさらに苦しくなっていきましたがこの時も同様に武士はお金を借りることが難しくなっていきました。
人足寄場(にんそくよせば)
先ほどの旧里帰農令のところでやりましたが、当時の江戸は「仕事がなくて都会に行く」という人が多く、そういった人たちは江戸でも職を見つけることが難しかったんです。
ということで江戸の石川島というところに職業訓練所を作りました。これが人足寄場です。
七分積金(しちぶつみきん)
江戸の町内においてはこの制度が敷かれることになりました。
町内会費の節約分のコメの70%を備蓄させるようにしました。当時の町内会費はまだカネではなくコメです。
尊号一件
光格天皇が高齢のため生前退位を行おうとしたのですが、「ルールにないから」という理由で定信がこれを却下したという事件です。
天皇にすら厳しい松平定信。結果的にはこの事件がきっかけで定信は失脚することになりました。
結果
田沼政治では商人の癒着が問題になりましたが、松平政治ではその逆で潔白でやっていきました。それも極端に。周囲(天皇も含む)に対して厳しすぎる政策をやっちゃったんです。なんでもやりすぎはよくないんでしょうね。
というわけでこの政治改革は失敗とまではいきませんが成功とはなりませんでした。
最後に
今回は以上です。ご覧いただきありがとうございました。
コメント
コメント一覧 (3件)
[…] 次に行われたのが寛政の改革です。詳しくはこちら。 […]
[…] 旧里帰農令って覚えていますか?江戸に出てきていた農民に対して故郷に帰るように奨励した令です。松平定信が出しました。 […]
[…] そして松平定信の行った寛政の改革の一環としてこの施設が利用されることとなります。 […]