今回で第9回となります!皆さんお疲れ様です!
桂園時代(明治時代では「カサカ」までを説明)
貴族院、軍部、官僚率いる桂派vs政党政治で民衆を率いる西園寺派
元をたどれば…過激派の山県vs穏健派の伊藤
「カ」=桂①のやったこと
1900から1905年までの長期政権(桂自身も首相就任期間は歴代2位)
この間、「日露戦争」が起こる。「 」で退陣
「サ」=西園寺①のやったこと(1906~08)
「 法」を成立させる(1906):全国の鉄道を国の物に
「日本社会党」の存在を認める。➡社会主義に寛容
「カ」=桂②のやったこと(1908~11)
- 「 詔書」を出す(1908):詔の字は天皇からの書であることを示す
内容:日露戦争が終わり、国民は愛国心を持たなくなったり、「自分」という存在に煩悶するように➡揺らいでいた心を引き締める内容。
- 「 改良運動」を実施:内務省を中心に市区町村の区画を一新➡国との結びつきをつよくする。
- 社会主義弾圧:「 事件」を機に大弾圧。
「 事件」:「 」らが死刑となる←後で詳しく説明
- 「 併合」を実行➡韓国は日本の完全な植民地に
「サカ」は大正時代で説明
<日露戦争>
中国分割
日清戦争後、中国が小国日本にも負けたという事実もあり、中国の分割が進む(p293)。注目すべきは「 半島」。日本は「三国干渉」で「ロフド」によって遼東半島を返還するが、そのロシアが遼東半島を占領➡ロシアはただ遼東半島が欲しかっただけでは?➡日本内では「臥薪嘗胆」がより加速していく
※アメリカはもともと「モンロー主義」を主張しており、植民地を持ってこなかったが、この時アメリカの「 = 」の出した「 開放」「 均等」の提案により、列強たちもアメリカの干渉を認めた➡アメリカもただ土地が欲しかっただけ、しかもご都合主義。
清内での反乱
さすがに中国もただで降伏するわけにはいかなかった。「 」を掲げた中国の排外主義団体「 団」が中国各地で反乱を起こす➡「義和団事件」➡これに中国政府が便乗し、反乱は大きくなったが日本を含む連合軍(p294)は直ちにこれを鎮圧➡「 議定書」を清に結ばせる➡清は壊滅的打撃を受ける。
朝鮮
三国干渉の後、朝鮮は閔妃率いる親露政権に➡日本は親日政権を作らせようとして、閔妃を暗殺➡閔妃の夫高宗は自分も日本に殺されるのではと思い、ロシア公使館に逃げ込む➡完全な親露政権の誕生➡朝鮮は「 国」を名乗り、日本に反抗。➡「朝鮮はいつも誰かの操り人形(風刺画「釣り」参照)」
このように日本は中国も朝鮮もロシアに奪われる事態に
対ロシア
中国分割の際、ロシアは満州を占領。日本はロシアと交渉せざるを得なくなる。
「日露協商論」:伊藤、西園寺派の立場。「満韓交換論」を推進:満州を正式に与える代わりに、韓国は日本が統治する。
「 同盟論」:山県、桂派の立場。ロシアを警戒しているイギリスと同盟を結び、ロシアに圧力を与える。
結果:「日英同盟論」が採択される➡「 同盟」を結ぶ(1902)。当時イギリスは「栄光ある孤立」を掲げており、ほかの国とは同盟を組んでいなかった。
今回はここまでです1ご覧いただきありがとうございました!
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