第8回ですね!
<条約改正>
「イワテイダイノアオキムツコ」
「アオキ」までは条約改正ならず➡外務大臣が「 」に:別名「カミソリ」
1894年、駐英大使の青木が尽力し、「 条約」が結ばれ、「 の撤廃」に成功。と同時に外国人の「内地 」を認める。
<議会政治②>
「イクヤマイ マイオヤイカサカサカ」二つ目の「イ」から
「イ」=伊藤② ※伊藤②は日清戦争後もしばらく存続
伊藤②のやったこと(日清戦争後)
自由党と連携:板垣を内務大臣へ懐柔➡「超然内閣」の崩壊
「マ」=松方②のやったこと
「 党」と連携:「 党」は立憲改進党の後身➡大隈を外相へ懐柔
➡「 内閣」と呼ばれる。結局、松方の増税案に進歩党が反発し、解散。
「イ」=伊藤③のやったこと(超然に戻る)
伊藤、「地租増徴案」増税案を持ち出す➡当然民権派は反対➡自由党と進歩党が合体「 党」となり、議会に対抗。➡伊藤は民権派に総理大臣を譲り、解散
「オ」=大隈①のやったこと
※日本初の政党内閣(ただし不完全)。首相兼外務大臣が大隈、内相が板垣
➡「 内閣」と呼ばれる。
しかし、「 演説事件」が起こる:文相「 (後の憲政の神様)」が行った演説。金権政治批判が目的。「もしも天皇がいなかったら」の文言が物議➡尾崎は辞職するも空きポストの争いで元自由党派と元進歩党派が分裂➡内閣解散
この際、憲政党は分裂:自由党派➡「憲政党」のまま、進歩党派➡「憲政 党」
「ヤ」=山県②のやったこと
山県②のやったことは政党内閣を超然内閣に戻すことが目的
山県はもともと伊藤と対立していた(山県は過激派、伊藤は穏健派)
①地租増徴:憲政党が協力=もはや憲政党の敵は国ではなく、憲政本党になってしまっていた。地租は2.5%(二分五厘)から3.3%へ
②「文官 令」改正:官僚に試験を設け、政党員を官僚にならせづらくした。
③「衆議院議員選挙法」の改正
(1)必要な納税額15円から「 円」に、被選挙人の納税資格は廃止➡選挙人は全人口の1.1%から「 %」へと増加する。
(2)「 選挙区制」から「 選挙区制」に
これによる変化:二大政党が当選しづらく、小政党が当選しやすくなる➡巨大政党が生まれにくくなり、政府への反対が少なくなる。
④「 法」の制定(1900):思想弾圧のための法律。労働運動は禁止。女子の政治活動はいかなるものも禁止。※1900年に結成された日本初の社会主義政党「 党」はこの法律により、解散を命じられる。
⑤「 制」の制定:軍の大臣(陸軍、海軍)は現役の軍人でなければならない=現行と逆(現行は「シビリアン:コントロール」)。
このような超然内閣化政策を受けて、憲政党もついに政府を見放す。山県と対立していた伊藤と手を組む「敵の敵は味方」➡1900年、「 会」の誕生、終戦まで第一党として活躍する。しかし、憲政会は自由党時代から伊藤率いる政府と戦っていたし、伊藤は下野したわけでもない➡板垣が自由党を政府に売った!➡反対の声も多かった(「 」の「自由党を祭る文」万朝報)。
山県内閣は、立憲政友会をはじめとして、反対が大きくなり、解散
「イ」=伊藤④のやったこと
立憲政友会を与党として政治を運営。しかし、貴族院にコネがある山県とその子分「 (長州)」が貴族院に働きかけ、伊藤の政治を阻害➡解散
この時、伊藤も山県も高齢になっており、政治を行う気力はなくなっていた➡後を後輩に託す➡伊藤は「 」を山県は「 」を後継者として、代理戦争となり、争い続ける=「 時代(カサカサカ)」の始まり
伊藤と山県は「 」という立場になり、ご意見番として機能
今回は以上です。
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