こんにちは。
今回の記事はこんなテーマでやっていきます。
当時は今では考えられないようなお粗末な政治運営が目立ちますが、成長過程ということで見守ってみましょう。
それではどうぞ。
初期議会とは
明治時代の議会(今で言う国会)のなかでも日清戦争までの議会を初期議会と呼びました。
議会とは、今でいう国会・内閣のようなものです。
内閣制度樹立
帝国議会が1885年に開設されたのち議会(今でいう内閣)が開かれました。今は衆議院と参議院ですが、当時は
という風に分けられていました。
貴族院議員は通常の人ではなることができず、華族(地位の高い人)のみがなることができました。華族は華族令によって華族は貴族院議員になる権利が与えられる&華族内でのランク付け(公、侯、伯、子、男爵)が行われました。
明治時代の首相の覚え方
これが一番使われているものです。「イクヤマイマイオヤイカサカサカ」。
となっています。こうやって見ると再就任の人が多いですよね。伊藤に至っては4回もです。
今回は「イクヤマイマイオヤイカサカサカ」の「イクヤマイ」までの範囲を書いていきます。
第一次伊藤内閣のやったこと
最初の「イ」です。よって初代総理大臣は伊藤博文となります。
大日本帝国憲法作成に向けた取り組みを行っていきます。
その一環として枢密院を創設します。この組織は憲法の審議を行うところで、天皇の諮問機関という書かれ方をします。後に強大な権力を持つので注目です。
黒田内閣のやったこと
「ク」ですね。彼のやったことは
の2つ。伊藤が頑張った憲法作成は最後に黒田清隆が発布します。
そして超然内閣。意味としては政党(民権派)の発言は気にせず政治を行う内閣ということになります。
当時は(今も憲法上は)選挙で選ばれていない人間でも要職につけたという背景があり、それが藩閥政治を加速させるのではないかと物議をかもしました。
第一次山県内閣がやったこと
「ヤ」=山県有朋ですね。
この内閣がやったことは予算案の作成です。当時の政府はまだ貧乏だったので予算作成は今より大イベントでした。
山県有朋は日本を「主権線」と称し、朝鮮を「利益線」と呼び、防衛のための海軍予算の要求の演説をしました。要は増税の要求です。
これに民党(自由党・立憲改進党)たちは反発します。理由としては彼らの支持者(税を払う人々)は増税してほしくないからでしょうね。民党は「民力休養(民の負担を軽くする)」、「政費節減」という2つの要素を政府に要求します。
予算案の可決については政府が自由党土佐派に取引を仕掛け、その結果予算案可決に成功します。そして予算案可決後に山県内閣は解散します。
第一次松方内閣がやったこと
「マ」=松方正義です。彼がやったことは
の3つです。前の山県内閣で予算について揉めたこともあってか今回は予算は抑えめに作ります。
しかし軍事予算が削られそうになったとき海軍大臣であった樺山資紀が蛮勇演説を行います。この蛮勇演説というのが「今の日本があるのは我々(薩長土肥)のおかげである」という内容。
この発言が藩閥政治だということで非難を大量に浴び、松方内閣は総辞職&衆議院解散➡総選挙へ行きますがここで政府は民党に負けぬよう、選挙干渉を行います。
選挙干渉とは民党支持者に弾圧を加えることで、首謀者は品川弥二郎(内務大臣)という人です。しかし結果はというと民党が圧勝することになりました。
第二次伊藤のやったこと
やったこととしては
- 「元勲総出」の内閣を作る
- 民党と対決
です。大物だらけの内閣=元勲総出を作ることによって支持を得ようと考えました。
伊藤はまた予算を増やそうとしますが当然のごとく民党に反対されます。実は日清戦争開戦の準備のため、予算を減らすわけにはいかなかったんです。
そこで伊藤は天皇を利用し、民党の反対を防ぎきることに成功、伊藤側の予算案を成立させることに成功します。この後、日清戦争が勃発しましたが当然予算案はすぐに可決、民党からの反対もありませんでした。
ここまでを初期議会ということになります。
最後に
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そして日本史の文化全体を幅広くまとめたおトクな記事はこちら。
今回は以上です。ご覧いただきありがとうございました。
コメント
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