ついに20万PVを突破。これも皆さんのおかげです。ありがとうございます。

【これだけでわかる】初期議会以降の明治時代の内閣をまとめ。

こんにちは。

今回はこんなテーマでやっていきます。覚えることが多いですが、念入りにやっていきましょう。

今回は「イクヤマ/イマイオヤイカサカサカ」の二つ目の「イ」からやっていきます。

時期としては日清戦争後からです。

初期議会のころの内閣についてはこちら。それではどうぞ。

目次

「イ」=第二次伊藤博文のやったこと(日清戦争後)

自由党と連携し、板垣を内務大臣へ懐柔します。

懐柔とは敵である人物を味方につけることをいいます。

これにより、民党側の人間を政治に入れたということになり、

結果として、超然内閣の崩壊が起こりました。民党としては大きな一歩です。

「マ」=第二次松方正義のやったこと

進歩党(リーダーは大隈)と連携します。

進歩党は立憲改進党の後身です。

そして大隈を外相へ懐柔。

松方の「松」と大隈の「隈」でこの結果松隈(しょうわい)内閣と呼ばれました。

結局、松方の増税案に進歩党が反発し、解散します。

「イ」=第三次伊藤博文のやったこと(超然に戻る)

伊藤が地租増徴案=増税案を持ち出します。

これに当然民権派は反対。

そこで自由党と進歩党が合体し憲政党となり、議会に対抗しました。

伊藤は強化された民権派に総理大臣を譲り、解散します。

「オ」=大隈重信内閣のやったこと

日本初の政党内閣(ただし不完全)です。

首相兼外務大臣が大隈重信で内相が板垣退助だったので隈板(わいはん)内閣と呼ばれました。

民党としてはここで国民の支持をもっと集めたいところ。

しかし、共和演説事件が起こります。

内容としては、文相尾崎行雄(後の憲政の神様)が行った演説で金権政治批判が目的だったんですが、

「もしも天皇がいなかったら」の文言が物議をかもしました。

その結果、尾崎行雄は辞職するも空きポストの争いで元自由党派と元進歩党派が分裂し、

結局内閣は解散となりました。

この際、憲政党は分裂して

  • 自由党派➡憲政党のまま
  • 進歩党派➡憲政本党に名称変更

という感じになりました。

「ヤ」=第二次山県有朋のやったこと

第二次山県内閣は政党内閣を超然内閣に戻すことが目的でした。

そして山県はもともと伊藤と対立していました(山県は過激派、伊藤は穏健派)。

やったことは

  • 地租増徴
  • 文官任用令
  • 衆議院議員選挙法改正
  • 治安警察法
  • 軍部大臣現役武官制

です。各項目を見ていきます。

地租増徴:憲政党が協力しました。

もはや憲政党の敵は国ではなく、憲政本党になってしまっていました。

地租は2.5%(二分五厘)から3.3%へ上がります。

文官任用令改正:官僚に試験を設け、政党員を官僚にならせずらくしました。

これは今も同じシステムですね。

衆議院議員選挙法の改正:

  • (1)必要な納税額15円から10円に、被選挙人の納税資格は廃止    ➡選挙人は全人口の1.1%から2.2%へと増加。
  • (2)小選挙区制から大選挙区制にこれによる変化:二大政党が当選しづらく、小政党が当選しやすくなる➡巨大政党が生まれにくくなり、政府への反対が少なくなる

これが目的です。

治安警察法(1900):思想弾圧のための法律。労働運動は禁止

女子の政治活動はいかなるものも禁止。

※1900年に結成された日本初の社会主義政党社会民主党はこの法律により、解散を命じられる。

軍部大臣現役武官制の制定:軍の大臣(陸軍、海軍)は現役の軍人でなければならない

=現行と逆(現行は軍人はダメ=シビリアン:コントロール)。

このような超然内閣化政策を受けて、憲政党もついに政府を見放します。

そして山県と対立していた伊藤と憲政党が手を組みます。

まさに「敵の敵は味方」という感じ。

そうして1900年に立憲政友会が誕生し、終戦まで第一党として活躍していきました。

しかし、憲政会は自由党時代から伊藤率いる政府と戦っていたし、伊藤は下野したわけでもない

➡板垣が自由党を政府に売った!ということで反対の声も多かったんです。

幸徳秋水自由党を祭る文という題で批判をしています。

山県内閣は、立憲政友会をはじめとして、反対が大きくなり、解散しました。

「イ」=第四次伊藤博文のやったこと

立憲政友会を与党として政治を運営。

しかし、貴族院にコネがある山県とその子分桂太郎(長州)が貴族院に働きかけ、伊藤の政治を阻害➡解散となりました。

桂園時代の始まり

この時、伊藤も山県も高齢になっており、政治を行う気力はなくなっていたんです。

そこで後を後輩に託すことにしました。

を後継者として争い続けることとなります。

これが桂園時代(カサカサカ)の始まりです。

伊藤と山県は元老という立場になり、「ご意見番」として機能していきました。

最後に

みんな苦戦する文化史の勉強法についてはこちら

そして日本史の文化全体を幅広くまとめたおトクな記事はこちら

今回は以上です。ご覧いただきありがとうございました。

Follow me!

この記事が気に入ったら
フォローしてね!

よかったらシェアしてね!
  • URLをコピーしました!
  • URLをコピーしました!

この記事を書いた人

コメント

コメント一覧 (2件)

コメントする

目次