こんにちは。
今回はこんなテーマでやっていきます。
大隈重信とは
出身は肥後です。
それではやったことを見ていきましょう。
やったことまとめ
- 明治14年の政変
- 立憲改進党の設立、早稲田大学の創設
- 初の政党内閣樹立、隈板内閣、共和演説事件
- 領事裁判権の撤廃を目標に交渉
- 第二次大隈内閣、第一次世界大戦、二十一カ条の要求
明治14年の政変
贈収賄事件なわけですが、当然民権派を中心に批判が集まっていきました。
この事件により、民権運動が盛り上がってしまい、政府は当時の民権派のリーダーである大隈重信を政界から追放してしまいます。そしてこの事件を明治14年の政変といいます。
この直後、大隈重信は板垣とおなじく、政党を作り、政府に反抗していきました。この時作ったのが立憲改進党。そしてこの党は板垣の作った自由党に負けるとも劣らない勢力となっていきます。
立憲改進党の設立、早稲田大学の創設
大隈重信が立憲改進党を作る。板垣退助率いる自由党との関係はライバルのようなもので度々争うことになります。自由民権運動でもライバルのような存在になっていました。
この結果として「自由党vs立憲改進党」という構図が発生していきます。
また、早稲田大学も同時期に大隈が創設しています。
初の政党内閣樹立、隈板内閣、共和演説事件
※日本初の政党内閣(ただし不完全)です。首相兼外務大臣が大隈重信で内相が板垣退助だったので隈板(わいはん)内閣と呼ばれます。民党としてはここで国民の支持をもっと集めたいところ。
しかし、共和演説事件が起こります:文相尾崎行雄(後の憲政の神様)が行った演説で金権政治批判が目的だったんですが「もしも天皇がいなかったら」の文言が物議をかもしました。
その結果、尾崎行雄は辞職するも空きポストの争いで元自由党派と元進歩党派が分裂し、結局内閣は解散となりました。
領事裁判権の撤廃を目標に交渉
個別外交という手段をとることにより交渉は大幅に改善し、撤廃にまでこぎつけることに成功します。
しかし、大審院(今の最高裁)の裁判官に外国人判事を置くことを認めてしまうんです。これは絶対にやってはいけないこと。これだと重要な判決に外国人が関われるようになっちゃいます。領事裁判権よりひどい。
そしてその際、機密で続けていた交渉をロンドンタイムズという新聞にリークされることとなり、国民から強い批判、そして大隈は極右勢力玄洋社の青年に爆破テロを受け、右足を失います。
第二次大隈内閣、第一次世界大戦、二十一ヶ条の要求
政治不信が強まっていったことから国民に人気のある大隈重信が政界に復帰。立憲同志会を与党として政治を行っていきます。外相は加藤高明。
やったことは第一次世界大戦(1914)です。
ここで日本が中国に出した二十一カ条の要求というものがあまりに日本に有利過ぎるものであったため、問題視され、この内閣は総辞職となりました。
最後に
今回は以上です。ご覧いただきありがとうございました。
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