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【スパルタ、ダメ・ゼッタイ】武断政治から文治政治への流れをまとめ。

こんにちは。

今回はこんなテーマでやっていきます。

人間に限らずですが、やられておいてやられっぱなしのモノはないんです。そしてやられっぱなしに見えるモノは虎視眈々と反撃のチャンスをうかがっているのです。他者へのやさしさとは他者のみならず自分も守るということなのです。今回はそんなお話です。

目次

いつ?やったのは?

江戸時代の初期にやりました。将軍でいうと四代将軍の徳川家綱から始まります。

それまでは武断政治という政治でビシバシとやっていくスタイルだったんですが、ビシバシやると反発が出てくるんですよね。

というわけで文治政治というあまりビシバシやらずに平和な世の中を目指すというスタイルに変わっていきました。

きっかけ

主には

です。

由井正雪の乱由井正雪という人が幕府の転覆をはかった事件です。

かぶき者とは浪人(主君がいなくなった武士)の中でもチンピラみたいなことをしている人でした。武士ということで刀を持っていたので人や犬を切って回ったんです。

彼らが増えた原因は主君がいなくなったから。武断政治での幕府は大名に

といった罰をしょっちゅう下していたため、大名の力が弱くなり、その結果浪人の増加、かぶきものの増加につながっていったんです。また、藩主の跡継ぎがいないというだけでも主君はいなくなってしまいますよね。

というわけで幕府はまずこの問題を解決します。

末期養子の緩和

先ほど最後に挙げたんですが、 藩主の跡継ぎがいないというだけでも主君はいなくなってしまいます 。

武断政治での幕府は後継ぎがいなくなった場合はその藩は解体という形だったんですが、それではやりすぎということでそういった大名には養子をとることを推奨していきます。

ただしタイムリミットがあって主君が50歳になるまでにする必要がありました。

殉死の禁止

殉死(じゅんし)というのは君主(藩主)が亡くなったときに後から部下が自害するという文化で、当時はよくあることでした。

これが流行った理由としてはそれをすると家の評価が上がるからということでした。死んだいった部下の息子が評価されるんです。

この文化に関しては特に困ったことはなかったのですが、死を遠ざけるという意味で幕府はこの文化を禁止しました。

最後に

今回は以上です。ご覧いただきありがとうございました。

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