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【バリエーション豊富】大正時代の総理大臣・内閣をまとめ。

こんにちは。

今回はこんなテーマでやっていきます。

15年しかない大正時代にこんなにバリエーション豊富な総理大臣が出てきたのはい日本の政治の黎明期っぽくて僕は好きですね。

それではどうぞ。

目次

第一次山本権兵衛

元老たちが選んだ薩摩の人間です。やったことは

どちらかというと政党側に優しい政治をおこなっていきましたが、ジーメンス事件海軍の賄賂問題)が起こり、総辞職します。これも山本権兵衛は直接は関わっていないんですがね。

これが第一次ということで第二次もあるんですがこの人は運が悪いですね。第二次の方も自分とは直接関係の無い事件で総辞職します。

第二次大隈重信

山本権兵衛が嫌われた理由としては藩閥政治が行われていたからというのも大きいです。そこで国民に人気のある大隈重信が政界に復帰。立憲同志会を与党として政治を行っていきます。外相は加藤高明

やったことは第一次世界大戦1914)です。

ここで日本が中国に出した二十一カ条の要求というものがあまりに日本に有利過ぎるものであったため、問題視され、この内閣は総辞職となりました。




寺内正毅

初代台湾総督の人ですね。大阪にあるビリケン君に似ていたのと憲法に即して作られた内閣ではなかった(非立憲)ことがもじられてビリケン内閣と呼ばれました。

やったこと・起こったことが

  • 石井・ランシング協定を結ぶ:日本の中国支配を認める代わりにアメリカの門戸開放の主張を認める。
  • 西原借款:中国の段祺瑞(たんきずい)に多額の資金を秘書(西原亀三)名義で貸す。
  • ロシア革命:ロシアで革命が起き、レーニンを主体とする共産主義国家へ。これにより共産主義の思想が世界に蔓延。
  • シベリア出兵:社会主義が蔓延するのを防ぐべく欧米や日本がロシアに兵を出す。名目はロシアに残存するチェコスロバキア軍の救出。結果としては欧米側の作戦は失敗に終わり、日本も尼港事件で被害を受ける。
  • 米騒動寺内シベリア出兵を決定した結果、米価が上がると予測した米屋がコメを売らなくなる➡米価がますます高騰➡一連の動きに反対した国民が暴動を起こす=米騒動(代表的なのは富山県の越中女一揆)

これだけあります。正直盛りだくさん。そして寺内正毅内閣は米騒動の責任を取り総辞職しました。

原敬(立憲政友会)

日本で初の本格的な政党内閣となりました。階級が平民だったので平民宰相と呼ばれました。

やったこととしては

  • 第一次世界大戦終結:結果はドイツ側が敗北。ヴェルサイユ条約を結ぶ
  • 大学令を出して私立大学が誕生。
  • 選挙法を改正し、納税額を10円から3円に、大選挙区制から小選挙区制に変えた。この動きに呼応して普通選挙の実施を求める声が強まるが原は普通選挙には反対。
  • 植民地の反乱鎮圧:朝鮮で起こった三・一独立運動、中国で起こった五・四運動を鎮圧。

結構やったことはありますね。そして東京駅で暗殺されてしまい、内閣は総辞職となりました。

高橋是清(政友会)

 ダルマ宰相と呼ばれました。写真を見ていただけたらその理由が一瞬でわかると思います。

 やったことは

です。

この会議で決めた条約は

の3つです。これにより協調外交(争いではなく話し合いで解決する外交)を主体としたワシントン体制が作られていく。

この後高橋内閣は閣内不一致(内閣内での仲間割れ)により総辞職します。




加藤友三郎(政友会)

 就任後すぐに亡くなってしまったのでやったことはありませんが、ワシントン条約で絶対に覚えるべき名前です。

第二次山本権兵衛

 やったことは

  • 震災復興1923年に関東大震災が発生し、震災恐慌も発生、その対応に追われた。政府の震災恐慌への具体的な政策は、支払い猶予令(モラトリアム)震災手形(現金化できなくなった手形を救済)。

です。また、震災時デマによって多くの中国人・朝鮮人が殺害されます。日本人も被害にあい、社会主義者の大杉栄らが憲兵に殺害されたり(甘粕事件)労働運動活動家が虐殺されたりもしました(亀戸事件)。

また帝都復興院を設立し後藤新平(台湾でも活躍)が総裁になり、東京の街の復興に尽力していきます。

そんな中で復興が進んでいるところに…

  • 虎の門事件:大正時代の皇太子(昭和天皇)がアナーキストの難波大助に狙撃されるが被害なし。

こんな事件が起こってしまいます。この事件により第二次山本内閣は総辞職。やはり運がないですよね。

清浦圭吾(政府派)

清浦内閣は貴族院の支持を受けて作られた内閣です。政府側の人間であり当然国民から非難が集中していきます。そうして起こったのが

第二次護憲運動です。第一次に続き第二次護憲運動が起こっていきます。清浦圭吾打倒のため、

の3人が手を組み護憲三派を結成、選挙(のみ)で清浦に反抗しました。

この時、政友会の一部は政策の不一致により政友本党を作り分裂していきます。そして選挙の結果、憲政会が議席を増やし、護憲三派が政権をとることになりました。

そうなると次の首相は憲政会の…

加藤高明(憲政会)

 ですね。やったことはいっぱいあって

  • 普通選挙法制定(1925):男子のみではあるものの、納税額にかかわらず選挙権が持てるようになった。
  • 日ソ基本条約:ソビエトとの国交改善。この際、ソビエトから入ってくる社会主義、共産主義思想を食い止めるために治安維持法が作られる。
  • 治安維持法の制定(1925):社会主義・共産主義運動を取り締まる法律。当初の最高刑は懲役十年
  • 協調外交の実施:平和を基調とし、欧米やアジア諸国にも不介入。幣原喜重郎が外相であったため幣原外交とも呼ばれた。

こんな感じです。協調外交に関しては「協調外交といったら幣原喜重郎」という認識で大丈夫です。




最後に その他の政治史

次の政治史は昭和時代に入ります。憲政の常道です。

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今回は以上です。ご覧いただきありがとうございました。

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