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【250年のツケ】明治時代の士族をまとめ。(秩禄処分・士族授産・佐賀の乱・西南戦争)

こんにちは。

今回はこんなテーマでやっていきます。

明治時代に入ると武士は基本的に必要のない存在となってしまいました。しかし彼らにも生活はある。そんな時に政府は一体どのような方策をとったのでしょうか。

それではどうぞ。

目次

士族とは?いつの時代?

江戸時代の時に武士という身分だった人たちが明治時代に入ってこのように呼ばれることとなりました。

それではここからは明治時代にとって武士というのがどういった存在だったかについて解説して行きます。

「士族、もう要らなくね?」の風潮

士族というものは明治政府にとってなかなか厄介な存在でした。主な点としては

  • 給料(秩禄)は払わないといけない
  • 武力にならない
  • プライドが高い

ですね。給料に関しても藩主がいないので全部国が払うことにはなりましたが、国も出来たてでお金がない状態だったんです。そして、刀が上手いより銃が上手いほうが戦場で活躍できることは戊辰戦争で証明済み。

これらのこともあり、ついに政府は士族を見捨てざるを得なくなりました。

秩禄処分

給料(秩禄)を渡すのを止めました。ただ、急にストップすると士族の側も困るだろうからということで金禄公債証書を発行し、一定期間は給料がもらえるような制度にしました。ただ、逆に言えばその期間を過ぎればお金は一切もらえなくなりました。

この一連の流れを秩禄処分といいます。この政策により士族の困窮が進んでいくことになります。

さらに政府は廃刀令を実施し、刀を持って歩けなくなりました。これにより武士のトレードマークがなくなり、これに武士はひどく落ち込みます。




武士(士族)に対する政府の援助

政府もやるべきことはやりました。仕事の紹介(士族授産)を主に行いました。士族授産で有名なのは

  • 屯田兵(とんでんへい):北海道に派遣され、開拓していく。黒田清隆の提案により作られた。

ですが、これになれた人は多くありませんでした。なれたとしても当時まだ未開拓の北海道を開拓していく作業なのでけして楽な作業ではないです。

というわけで士族が主にやったのは商売だったんですが

  • プライドが高い
  • 商売に慣れていない

などが原因で士族の商法は上手くいかなかったケースがほとんどです。

明治6年の政変(1873)

征韓論が発達していき、韓国(朝鮮)を制圧して、そこで得た利益を国民に与えるという方針が定まっていきましたが、結果として採用はされず、西郷は下野(げや。政界から抜けること)することとなります。同じく下野した人としては板垣退助がいます。

西郷たちからしたらプライドが傷ついたんでしょうね。この一連の出来事を明治六年の政変といいます。

そして、西郷隆盛は同じく政府に不満を持っていた士族と組み軍事で政府に反抗していくこととなります。

西郷隆盛たちの政府への反抗

まず起こったのが佐賀の乱。司法卿江藤新平の起こした戦いですが江藤は敗北し死刑となりました。そのほかに萩の乱・秋月の乱・神風連の乱も政府に敗北し、士族側は後がない状況となりました。

そうした中で起こったのが西郷隆盛の起こした士族最大の戦いである西南戦争(1877)です。ですがこれも西郷の郷友である大久保利通によって制圧され、西郷は切腹することとなります。

これで、士族の政府への反抗は終わることとなります。




最後に 板垣退助は・・・

板垣退助は西郷と同じく明治6年の政変下野しますがそのあと自由民権運動という形で政府に反抗していく事となります。

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今回は以上です。ご覧いただきありがとうございました。

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